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寄稿文 カナダ - 日本

美しい桜の背後にある日系カナダ人の悲史
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    ブリティッシュ・コロンビア州のビクトリアは、地理的に日本から一番近いため、当国に最初に来たパイオニアたちは、まずこの地に第一歩を踏んでいる。

     

    歴史を遡るとすでに140年も前のことになる。

     

    桜

    昔とは大変に異なる現在のビクトリア・ハーバーだが、写真婚の花嫁たちはまずここに到着した

    日系二世

    当時は一旗揚げて日本に帰る者や、またアメリカに渡る足掛かりの地として来た者もいたが、一方日本から花嫁を迎え定住した者も多かった。

     

    生来が真面目な日本人は、事業に成功し、家族と共に当地に根を張って行ったのである。

     

    ところが先の大戦が勃発するや、それまでの努力は水の泡と化した。

     

    カナダ政府は、1942年4月に彼らを敵国人として扱い有無を言わせず財産を没収した。

     

    その直後、バンクーバーのヘイスティング公園にあった悪臭立ち込める牛舎にまず収容し、その後、本土のロッキー山脈の麓の町々に急きょ建てたバラックまがいの幾つかの強制収容所に、一人残らず送り込んだ。

    (Wallace A. J. Smith と言う白人男性と結婚した日系二世のSally Kuwabaraのみは例外として島に残った)。

     

    それまで良き市民として生活していた人々には、晴天の霹靂であったことは言うまでもない。

     

    だがそれに先駆ける1937年春、まだ平和だった頃に行われた英自領記念日に、日系人は紙の桜でフロートを飾り、一等賞の300ドルを市から授与された。

     

    彼らはそれを返上し桜の苗木を買うように願い出た。

     

    桜

    日系人の寄付で最初に桜の苗が植えられた通りTrutch Street

     

    だが戦後彼らは諸事情で当地には戻らず、遠く離れた東部のオンタリオ州などの町々に移動し、春爛漫の花の盛りを一度も見ることなく亡くなった人も多かった。

     

    桜

    春になると至る所で見事な花を咲かせる市内の桜

     

    桜

     

    桜

    夏にみられる名残りの桜

     

    悲しい歴史を知ってか知らずか、市内の何百本もの桜はその後すくすくと育ち、今はビクトリア市の春の風物詩となっている。

     

    そんな過去を知るほどに、昔は余り気にも留めなかった桜の花を模した小物に、最近は何かと目が奪われる。日本なら安物の雑器で価値などないだろうが、どれもひどく愛おしく思われて仕方がない。

     

     

    桜

    骨董屋で見つけた桜の花の描かれた雑器

     

    (アメリカ政府の日系人に対する補償が成立したのを受け、1988年にカナダ政府も歴史の汚点を反省し、日系人への公式謝罪と犠牲者一人当り$21,000ドルの補償金を支払った)

     

     

     

     

    | - | 08:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    BC州・ビクトリアのお盆の供養
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      お盆

      往く夏を惜しむバラの花

       

       

      8月27日(土)記

       

      8月も後45日で終わるかと思うと、何か一抹の寂しさを感じる。夕日の落ちる時間も早くなったし、朝夕の涼しさもひと際感じられるようになって来た。

       

      長年住んだトロントの夏の締めくくりは、何と言っても8月後半の二週間余り、オンタリオ湖畔のCanadian National Exhibitionsと呼ばれる場所で 開かれる博覧会である。

       

      観覧車、ローラーコースターなどの乗物を始め、各種のゲーム、お化け屋敷、農産物展、有名シェフのデモや試食、ファッションショー、各種コンサート、そしてショッピングの売店やレストランが所狭しと軒を連ねる。

       

      これは9月のレイバーデーまで続き、町中はワサワサと落ち着かない。何回か行けば毎年同じことに気付くが、生粋のトロントニアンのある友人は、「これに行かなければ夏は終わらない!」と飽きもせず毎夏出かけていた。

       

      そんな大々的な催し物などはないビクトリアでは、さて一体何によって夏の通過を感じさせられるのか?

       

      冷静に周りを見廻すと、マラソン競争、自転車競走、はたまたドラゴンボート競争等など、健康志向の催し物が多い。加えてギリシャ人のグリーク・フェスティバル、スペイン人のフラメンコ大会、インド人の民族祭り、亡き人を弔うポルトガル人の行列などが催される。

       

      一か所に集まって大々的に…とはならないし、その規模の小ささには微笑ましささえ感じるが、どれも素人ぽっくって一生懸命なのは見ていて気持ちがよい。

       

      そこに加えて、日本人、日系カナダ人にとっては真夏の「お盆」の集まりがある。

       

      お盆

      100人ほどが集まるお盆の行事

       

      この行事を仕切るのは、本土のStevestonの町にある浄土真宗のお寺から来られるグラント・イクタ僧侶である。日系人150余体が眠るビクトリアのロス・ベイ墓地に来られるまでには、島の各所に残る古い日系人墓地を数か所巡り、お墓の掃除をして清めた後に先祖の霊のために野外での祈祷を行うのである。

       

      お盆

      本土Stevestonの町にある浄土真宗のお寺から毎年島の数か所にある

      日系人の墓参に来られるグラント・イクタ僧侶

       

      お盆

      野外に設けられた祭壇

       

      お盆

      読経の中でお焼香を済ませる

       

       

      去年この二日に渡るツアーに参加して、西海岸での日系史に改めて向き合い深く頭(こうべ)を垂れた。

       

      もちろん「お盆」とは日本特有のもので、「迎え火」「送り火」を焚き、ナスときゅりに割り箸を刺して馬と牛に見立てた精霊馬(しょうりょううま)を飾るのが習わしである。が、今どきは日本の都会などでは余り見られなくなったその行事を、この島に来て体験した時は、正直言って驚いたものである。

       

      私は今、英語で書かれた約140年前に始まった日本人のパイオニアたちの移民史を、グループで翻訳する仕事をまとめている。思っていたよりずっと大変な仕事であるが、我々の先祖の歴史と向き合うよい機会であることに間違いはない。

       

      白人社会の中で、何よりも強制移動という言葉にはいつくせない差別と闘いながら生き抜いた先人の頑張りがなくしては、我々の今の生活はないと言えるだろう。今後も一年に一度のお盆のお墓詣りで、彼らの過ぎ越し方に思いを馳せたいと思う。

       

      お盆

      ロス・ベイ墓地に眠る150余体の内、幼児の時に亡くなったのは50人ほどになる。

      今年はその子供たちのお墓に縫いぐるみを置いて供養した

       

       

       

       

       

      | - | 15:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      「死」と向き会うということ
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        第二次大戦後に生まれたベビーブーマー(団塊の世代)が社会の一線から退き、退職期に入っているのは世界的傾向でカナダも例外ではない。

        以前にもこの欄で書いたが、ビクトリアのシニア率(2011年国勢調査)は18.4%で全国平均の14.8%より上である。(今年はまた国勢調査年のため数字が更新されるだろう)

        過日そのシニアの多い町に「日本看取り士会」という組織の会長と、その一向が来て講演会を行った。この分野に私には全く予備知識がなかったが、漢字から察するに人生の最後、つまり死に直面する人々と向き合う仕事であろうとは容易に想像出来た。そして連鎖的に思い出したのが、以前観た本木雅弘、広末涼子主演の『おくりびと』という映画であった。

        私は物書きと言う仕事柄、知らないことは自分の目と耳、時には感触によって確かめないと気がすまない。と言うことで、「おくりびと」と「看取り士」とはどう違うのかを知るためにも講演会に出席した。


        看取り

        会長の柴田句美子さんは外国への出張講演は初めてとの事であったが、自身のバックグランドに始まり、何故この道に深く関わるようになったかの経緯、活動の紹介、看取り士になるための仕組み等を、ビデオ(途中でダウンしてしまったが)を使って話された。

        全く新たな職域ではあるが、彼女が数年前に立ち上げた「一般社団法人日本看取り士会」の養成講座を受け「看取り士」の資格を持っている人は今150人ほどいるとのこと。

        今回ビクトリアに足を伸ばしたのは、当地に住むある日本女性の積極的な働きかけがあってのことだが、講演の次の日からは、日本から会長と共に随行して来た
        12人が、当地の希望者2人と共に数日の講座を受けるためであった。

        予定の講座に参加するなら、いっそのことこの機を利用して目先の変わったビクトリアで・・・、となったようだが、講座費用、旅費、滞在費を含めれば決してお安い額とは言いがたいであろう。しかしそれでもこれほどの人数が集まるのは、やはりこれからは益々需要のある領域と言えるからと推測する。

        柴田さんの著書によると、日本における年間死亡率は現在110万人、団塊世代が加わることで将来は160180万人になると言われているそうだ。

        さてそれでは「おくりびと」と「看取り士」との違いは何か?

        「おくりびと」は亡くなった死体そのものに死化粧をし納棺し・・、と言った一連の作業があるが、一方「看取り士」は亡くなる人と生前に向き合い、抱きしめてその人の思いや愛やパワーを受け止め、残された人に受け渡すことだと言う。

        となると、立場に相違はあるものの、妊婦が病院での出産を望まない場合、お産婆さんの手を借りて自宅で産むのとどこか似ている気がする。


        だが、出来れば日常生活の中で人が直視を避けたい『死』と言う問題に向き合うということは、「仕事」とだけでは決して割り切れないもっと深遠な人の心の襞に触れることを要求される。それが出来る強靭な精神性も必要となる。

        しかし正直言って私は、柴田さんの講演が始まった時内心かなり戸惑った。というのは、彼女の終始一貫ニコニコしてよどみなく話す様が、まるで信者を獲得する新興宗教の教祖のように見え、ひどく違和感を覚えたからだ。


        看取り

        もちろん仏頂面した人から『死』の話を聞きたいと思う人はいない。日常の中のグレーの部分を話すことに、経験を積んだ彼女にはすでに抵抗がないのであろうし、幾つもの体験を乗り越えてきたからこその笑顔なのかもしれないとは思うが・・・。

        さて、言葉も習慣も違うこの国で日本と同じ作法が通用するかの疑問はあるが、一方このコンセプトが西欧社会ならではの独自の方向に波及することも考えられるなくはないだろう、とそんな感想を持った。
         

         


         
        | - | 05:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        作家 津島佑子さんの思い出
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          作家の 津島佑子氏が2月に肺ガンのため68歳の若さで亡くなった。

          かの有名な太宰治の娘であったことを知らぬ人はいないだろう。あらがう事が出来ない血の流れとでも言おうか。生前受賞した「文学賞」は14にもなりその数の多さには驚かされるが、作品は自立した女性の生き方や、人間の生死を軸にその真髄に迫り問い続けた作品が多かった。

          それは氏の生い立ちを見れば容易に理解できる。

          多摩川上水で、よその女性と入水自殺した38 歳の父親とは一歳で死別しており、12歳の時には脳性障害のあった3歳年上の実兄が病没。
          更には、父親が又も他の女性との関係で生まれた津島氏とは8ヶ月違いの異母妹、作家・太田治子の存在もある。加えて、自身の私生活では一度目の結婚で娘1人を出産後離婚。再婚相手との間に生まれた8歳の息子を呼吸発作で亡くし、その後この夫とも離婚している。

          人生の辛苦を十分に体験し尽くした作家であったが、作品は日本ばかりではなく、英語、仏語、独語、伊語、中国語など等にも翻訳されており国際的にも評価が高かった。

          すでに20年前になるが、私はこの作家を単独インタビューする機会をもった。氏は当時まだ40代後半で、トロントで毎年開催される国際的に名の知れた作家たちを招待して、自身の作品を読む「国際作家大会」に参加するために来加された時のことであった。


          Tsushima Yuko

          当然と言おうか、その時私はお会するまでかなり緊張した。だが、質問を開始すると気取ったところはミジンもない気さくな人柄であったが、同時に内に秘めた強靭な意志をそこここで感じた。

          その時の貴重な体験を振り返り、今でも私の心に残る氏との会話の幾つかを思い出してみたい。

          まず私がとても知りたかったのは「小説を書く喜びとは何か」と言う事だったが、「私は自分が伝えたいと思うことを小説に書くため『これは届くぞ』と思うものが書けたとき、またはそれを受け止められたと感じられたときはとても嬉しいです」と率直な返事が返ってきた。

          続いて「父親、実兄、息子さんとの死別がご自分の文学に与えたものは?」に対しては「私に小説を書く力を与えてくれたのは、脳障害のあった兄の存在が大きかったと思う」と言い「彼は言葉を使って自分で表現することは出来なかったものの、人間的な感情や知恵に満ち溢れていて人を愛することを知っていました。でも肉体が死んでしまえば後には何も残らないわけです。

          父も小説は残しましたが、若くして亡くなりましたからまだ言いたいことがあったのではないか思います。家族ばかりではなく、語らずに死んでいった多くの人の気持ちを代弁したい、と言う気持ちが文学に進むことを選んだのだと思います」とその思いを吐露してくれた。


          また父親の作品はいつ頃から読み始めたかには「10歳のころなるべく漢字の少ないのを選んで読みました」といい「でも家族が書いた作品と言うのは個人が残した日記を見るようで文学作品としては読めないものですが、ただ何を考えていたかを知りたかったのです。

          私のことを『何てかわいい子だ』なんて書いてあるかと期待したのですが、何もなかったのでがっかりしたのを覚えています」とユーモアのある返事をしながら破顔一笑する笑顔が優しかった。


          幾つもの質問の後に日常のスケジュールを伺った時「私は家の中のことなど、浮世のことはもうすべてやってしまった、と言う生活状態にしないと全身で小説に入り込めないのです」との返事が返ってきた。

          私は内心「こんな著名な作家でも女性となると日常の雑事が優先されるのか」と半ば驚き、反面、それ故に「人間的な細やかな表現が出来るのかもしれない」と納得したのであった。


          ご冥福を祈りたい。

           
          Tsushima Yuko





           
          | - | 02:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          日本の国技 相撲
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            メールマガジン「ビクトリア見聞録」 3月27日号


             



            読者の中には日本の相撲がこよなく好きと言う人も多いかもしれない。近年はテクノロジーの発達によって、海外在住でも年6回の取り組みを楽しむことなど分けもないことである。

            私はいわゆる「相撲ファン」などではないものの、今場所は誰が優勝したくらいの情報は得ている。

            若い頃は、あの太った身体を目にするのがとても不快で、頭では歴史のある国技だということは知っていたが、世間で言う人間味が出る技の素晴らしさなどに目を向ける気など更々なかった。


            だが外国住まいが長くなるに従って、日本のこうした催し物に「懐かしい・・・」と言う気持ちが湧き食わず嫌いは良くないと思うようになった。

            そう思ってたまに目を向けると「なるほど、あんな技があるのか」とか「あの力士の技はお粗末だな」と素人の私でも段々と分かってきたから不思議である。


            力士はどこの国の出身でも四股名は日本名であるため、通でない限り同じアジア系の場合などは、顔を見ただけでは日本人力士かどうかまったく分からない。

            今や外国出身の力士など何も珍しくないが、戦後初の外国人力士は64年に初土俵を踏んだ高見山(ハワイ出身)でジェッシーという愛称で呼ばれていた。大きな身体にしゃがれ声、加えて米国人らしい陽気さで人気があったのを覚えている。

            中にはカナダ出身の力士もいたようで、85年の九州場所で初めて土俵を踏んだ琴天山と言う人が記録にある。だが彼は相撲界にどうしても馴染めず、プロレスラーに転身したが42歳の若さで病死したそうだ。

            その後は、30年振りに去年白人力士(ビクトリア出身)がニュースになり、当地の新聞Times Colonistでも採り上げられた19才のブロディ・ハンダーソン力士が記憶に新しい。金髪でイケメンと騒がれているようだが、その内にビクトリア在住の両親に会い、また次の訪日の際には本人を是非インタビューしてみたいと思っている。

            今はモンゴル出身が外国人力士の中で一番多く26人にも上り、日本の伝統競技はすっかり外国人力士がその担い手になった感がある。実際の優勝歴を見ると、2006年以来モンゴル勢が19回、ブルガリア出身の琴欧州が一回優勝しているのである。

            そんな中、今年3月の春場所では、大関琴奨菊が10年ぶりに日本人力士として優勝を果たした。だがその際メディアが余りにも「日本出身を前面に出し過ぎる」と批判され、違和感を感じた人は多かったようだ。

            「世間では国際化、国際化を叫ぶくせに・・・」と私もその反応にニンマリし、そう感じる人がもっと増えればいいのにと思ったものだ。


            もちろんこれは、相撲は日本古来の文化という思いが日本人には根強くあり、今でも外国人力士を脇役(お飾り)と考える人が多勢を締めるからではないかと思う。

            だが今は、モンゴル出身者を筆頭に11カ国から39人の力士がしのぎを削る時代である。日本人も外国人も分け隔てなく戦えるスポーツに変身しなければ、相撲界の将来はないのではあるまいか。

            ちなみに私は軽量で小柄ながら、真っ向から勝負を挑むモンゴル出身の日馬富士が好きである。





             
            | - | 02:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            温暖の地に築く「Tent City」 〜BC州・ビクトリア市のホームレス問題 〜
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              冬の温暖なビクトリア市



              3月初めには桜が咲き乱れるビクトリア市


              カナダの中では気候が一番温暖といわれるバンクーバー・アイランド。確かに州都であるビクトリア市に、冬の間雪が降ることは大変珍しい。
              まれには、うっすらと雪景色の朝もあるものの、太陽が出ればすぐに溶ける。とは言え、冬は雪の代わりに雨が多く、曇り空の日が続くのは珍しいことではない。


              それでも国内のどこよりも温暖な地となれば、冬を過ごすのが楽なことは確かだが、それを見越してこの町に集まるホームレスが当地では大きな問題になっている。

              薬物利用などが理由でこの一年で8人が亡くなったというが、トロントの冬のように路上生活で凍死することはないため、仲間が仲間を呼び寄せることも多くなる。

              実際にバンクーバーはもとより、トロント、カルガリー、エドモントンなどからもヒッチハイクをしながら当地に来る人々もいる。今時はホームレスといえども携帯を持参している人も多く、仲間同士が簡単に連絡を取り合えるようだ。


              たむろして集まる場所は郊外と言う事はほとんどなく、やはりいろいろなことで便利な上、人通りのある場所の方が日銭の実入りも多いことからダウンタウンに集中することになる。

              都会であれば今時は、世界の何処でもホームレス問題を抱えていない町はないと言っても過言ではないだろう。
              もちろんカナダも例外ではなく、
              2年前に国が発表した「2014年度ホームレス年次報告」によれば、シェルターの確保を初めとして、警察との関わりや病院への費用など諸々の関連を併せると、年間約70億ドルが使われているという。


              州裁判所の裏庭

              「ガーデンシティ」の異名があるほど綺麗なビクトリア市は、春から始まる観光シーズン中には、昨今の強い米ドルの影響もあって多くのツーリストが訪れる。当然ながら観光は大きな収入源であるが、街中に見られるホームレスの問題は市に取って長いこと頭の痛い問題になっている。

              特に去年の夏ごろから、ダウンタウンにある州裁判所のレンガ造りの立派な建物の後ろに広がる公園に、「Tent City」と称するたまり場が出来たことから大きな波紋が広がった。

              最初のうちこそ数も少なかったが、季節が移り秋も深まる頃にはその人数が日増しに増え、常時100120人くらいの人々が幾つものテントに寝泊りするようになった。

              中にはしっかりと土台を作り、冬に多い雨が床から染み込まないようにバラックまがいの家を建てる人まであらわれた。


              tent
              バラックまがいの手作りの家

              tent
              階段のついた建物もある

              トイレは公園脇に設置された簡易トイレを使用し、定期的な交換が行われる。またシャワーは近くの互助機関に備えられている場所のを利用することが出来る。


              テント
              「シェルターではなくホームを」のサイン


              「貧困は大きなビジネス」と皮肉ったサインも見られる

              テント
              幾つも並ぶ簡易トイレ

              時の経過と共に公園の周辺住人から、昼夜にわたる騒音や、車庫やバルコニーからの盗難の被害などの苦情が相次ぎ、それをマスコ
              ミが大々的に報道し、問題が益々エスカレートしていっった。


              テント
              連日の新聞の記事

              筆者は何回も時をずらして公園を訪れてみたが、彼らは毎朝の行事として輪になってその日の心境をぶちまける儀式のようなことを行っていた。こうした生まれる仲間意識が強い絆になっていくという。


              テント
              輪になっている様子(中央の赤いジャケットの2人は毎朝様子を身に来るNPOのボランティア)
              後ろの建物がBC州裁判所



              テント
              雨の日の翌朝のぬかるみの処理。ボランティアが手際よくワラをまく


              政府からの援助

              当然ながら、州政府もビクトリア市も問題を黙認しているわけではなく、以前からタウンミーティングを開いたり、あれこれと良案を提出し解決に向けて乗り出している。

              まずは住居の確保ということで、幾つものNGO機関と連携して市内にある今は使われていない建物を改造し、シェルターとして提供している。しかしいずれも永久に住めるパーマネント・レジデンスではないが、市内に数ヶ所そんな場所を確保し、ボランティアの手を借りて改築している。

              その一はTent Cityの公園からわずか2ブロックほどの所にあり、Mount Edwards Courtと呼ばれる如何にも歴史を感じさせる古めかしい建物である。以前はシニア向けの住居として使われていたというが、BC 州は365万ドルで購入し臨時のシェルターに改築した。


              テント
              Mount Edward Courtの立派な外観

              ここは100人ほどを収容することが可能だが、2月末にはその内の38部屋の改築が終了し、Tent Cityからの住人が住めるようにした。食事を提供し、将来のためにライフスキルのトレーニングを行い、また健康管理や薬物依存症の人々へのサポートプログラムなども組みつつある。

              だが今はあくまでも一時的なシェルターとして提供しているに過ぎない。将来もし住居可能な100部屋すべてを低所得者用のハウジングとして恒久的に住めるようにするとなれば、地域住民の理解を求めるために公聴会を開き、許可を得るなどの大々的な手続きを踏まなければならない。


              テント
              「シェルターではなくhomeを」のサイン

              公園がホームレスのたまり場になる前は、この一体は閑静な住宅街でカテドラルと呼ばれるカトリック教会とそれに併設された学校もあることから、どの程度住民の許可が得られるかは大いに疑問で先行きの見通しは立たない。

              加えてこの学校に子供を通わている親たちが、先の見えない地域の環境に不満をつのらせ、最近は子供を他校に移すようになっており、従って教師も職を失いなど負の連鎖も見られるようになった。


              テント
              教会を背にテントが並ぶ

              しかし一方では、こうしたハウジングのプログラムに関わる人々や、BC州の住宅局大臣などは、「ひとたびホームレスの住居が定まり定住するようになれば、彼らにも地域の住民としての認識が生まれ、また地域に住む人たちにとっても新たな住人への理解が深まると思う」とコメントしている。

              だがこうした問題は、関わって被害を受けている人に取っては大問題だが、そうでない人たちはサポートはするものの常にNMBY(Not My Back Yard)となり、喧々ごうごうの争議が持ち上がっている。


              立ち退き命令の225

              市内の梅の花が盛りを迎え、又早咲きの桜もチラホラ見られるようになった225日は、Tent Cityの住民にとって「裁きの日」であった。

              それは州政府の命令で、ホームレス全員が公園から立ち退きをしなければならない日だったのだ。全員の行き先が決まったわけではないものの、この命令によってさぞかしの大移動が繰り広げられるのかと想像していた。

              しかし当日は、晴天で春うららの日であったことも手伝い、切羽詰った雰囲気は一切見られなかった。
              午後
              4時ごろにはバンクバーのイーストサイドから50人ほどの応援団がバスに乗って駆けつけ、ボランティア関係者、メディア関連の人々も入り乱れ、まるで大賑わいのお祭り騒ぎを展開した


              テント
              機材の点検に忙しいメディア・クルー

              テント
              自分で焼いたケーキを持参してきたボランティアの男性

              テント
              一日中ホットドッグ作りを手伝うボランティア

              差し入れのたくさんの食料は、ホットドッグ、チップス、サラダ、手作りのケーキ、果物、飲み物など等・・・。
              Tent Cityの住人に限らず、集まった人の誰かれを問わずに振舞われ、今日が立ち退きをしなければならない「最終日」などという切羽詰まった雰囲気は一切感じられなかった。


              テント
              ポリスも明るい表情で見守る

              本土からの応援団は、民族衣装を身に着けたファーストネーションの人々が多かったが、白人のアクティビストもたくさんいて、次々にマイクを握り「一丸になって頑張ろう!」と意気盛んに思いの丈をぶちまけた。

              特にファーストネーションの人々は、自分たちの出自ゆえに虐げられてきた過去を持つだけに、強いサポートを惜しまない。


              テント
              バンクーバーからの応援に駆けつけたファーストネーションのチーフ

              テント
              本土から来たサポートの人々

              問題の解決に向けて

              ビクトリア市民のどの人に聞いても、この日を境にTent Cityの住人が一斉に姿を消すなどの幻想は持ってはいなかった。

              事実23日後に再度公園を訪れてみると、テントの数は確かに少し減っているようには見受けられたが、「どのくらい減ったの?今の数は?」の質問に、「まだ100人くらい居るかな?」との返事。
              「えっ、それって前と変わらないじゃない?」に対して「移った人の場所にまた新らしく人が来るからね」と言う。


              普通は正式に引越しや国内移住をすれば、移動先の生活を開始するにあたり揃えなければならない書類など煩雑な手続きがいろいろとあるものだ。

              そんな面倒をすり抜けての生活は楽かもしれないとは思う。だが、個々の話に耳を傾けてみれば、社会の流れからすり落ちて路上生活を余儀なくされたバックグランドが容易に垣間見られる。


              テント
              立ち退き命令の5日後、すこしテントの数が減ったように見受けれられるが・・・

              彼らと政府や互助機関の援護サービスをめぐる動きは、何やらイタチゴッコのように思えなくはない。だが、それでも努力を重ねる関係者には敬意を表したいし、これからも途切れることなく続く問題であることにだけは間違いはないだろう。

              (2月末日 記) 

              〜*〜*〜*〜*〜

              後日談:あの立ち退き命令が出た日から一ヶ月経った3月25日。
              一時的にはテントの数が少し減ったように見受けられたが(↑)、また以前と変わらない数のテントと住民が敷地を埋めていた。土地の人々やメディアは「もう当地だけで手に負える問題ではない。国が立ち上がらない限り解決は無理」といった論調になっている。
               

              テント
              また以前とほとんど変わらない同じようなテントが並び始めた
               
              | - | 10:51 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              書評「コーラス・オブ・マッシュルーム」(Chorus of Mushrooms)
              0
                 
                【書評】

                 アルバータ南部に移住した日本人家族の物語
                  「コーラス・オブ・マッシュルーム」
                    (
                Chorus of Mushrooms
                  ヒロミ・ゴトー著、増谷松樹訳(彩流社)
                http://www.e-nikka.ca/img_base/10pic.gif


                マジック・リアリズム技法
                 今年、日本の彩流社から出版された日系カナダ人二世の
                ヒロミ・ゴトー著、増谷松樹訳「コーラス・オブ・マッシュ
                ルーム」が話題となっている。

                 数ある小説の中には、多くの登場人物が幾重にも入り組むも
                のも少なくない。
                 だが「コーラス・オブ・マッシュルーム」は、何人かの限られた
                人物によって話が進められていく。
                 

                書評 コーラス
                ヒロミ・ゴトー氏 

                 物語を織り成す主な人々は、年配になってから娘夫婦と共に
                日本からアルバータ州のナントンという小さな田舎町に移住し
                20年になる85歳のナオエ(清川直恵)、娘夫婦のケイコと夫
                シンジ、その夫婦の娘であるムラサキ(英語名=ミュリエル)
                と彼女のボーイフレンドである。もちろんそこには彼らに絡
                む友人や知人たち、経営するマシュルーム工場で働く
                人々、町中の人々も重なりあう。
                 

                 だが、これは単なる日本人の移住物語ではないため、筋書き
                を確実に理解するにはしっかりと読み込む必要がある。

                何故なら、文章がいわゆる「マジック・リアリズム」の手法を
                用いて書かれているからだ。ちょうど村上春樹の短編集、
                例えば「かえるくん、東京を救う」「神の子どもたちはみな
                踊る」などを彷彿(ほうふつ)させる。
                 

                 つまり、日常にあるものが日常にないものと融合した表現
                技法が屈指されているのである。

                 また登場人物が一つ以上の名前を持っていたりするため、
                作品構成ばかりではなく、内容が非常に謎(なぞ)に満ちて
                いる。

                 平易に物語を理解しようとする読者は完全に拒絶されるが、
                反面、それゆえに次に何が起こるか興味が湧くのである。
                 


                「コーラス・オブ・マッシュルーム」の表紙 

                 原文の英語本「Chorus of Mushrooms」では、ローマ字で長々
                と書かれている日本語(その個所の英語の説明はない)が
                そこここ引用されている。

                 日系作家は日本語の単語や短文を文中に使うことに特徴があ
                るが、本書では長文が多数出現し、それを訳者はカタカナで
                表現している。


                 加えて、手書きの文字、新聞記事、葉書(はがき)までもが
                挿入されており、言語の表現が実に幅広いことに驚く。


                mushroom
                 
                 それを日本語訳者(増谷松樹氏)は異なるフォント、太字、
                イタリック体、カタカナなどを用いて読者が理解しやすいよう
                に組んでいる。


                mushroom

                 おかげで物語を追い易いが、翻訳者にとっては、
                さぞやチャレンジングな仕事であったろうことは容易に想像
                がつく。
                 

                mushroom

                「オバアチャン」ことナオエ
                 物語は本書の一番の主人公である「オバアチャン」ことナオエ
                が、娘夫婦と共にカナダにやって来た成り行きから始まる。
                 彼女にとっては決して意にそった移住ではなかった上に、娘
                夫婦はカナダに同化するために家庭内でも日本語を話すことを
                拒否し、英語のみの生活を選択する。
                 

                 老いてなすすべもない年齢で、こんな環境にいることを余儀な
                くされれば、普通は口を閉ざしてしまうだろう。しかしナオエは
                しゃべることを選択し、周囲にはお構いなしに断固として沈黙を
                拒否し続ける。それゆえに物語は次々と展開して行くのだ。
                 

                 自分の生い立ち、少女時代の養蚕場での仕事、戦争中の結婚と
                離婚・・・などなど、とめどない。興味深いのは、そこに日本の
                昔話なども挿入される。だがその筋書きと結末は、従来の
                「おとぎ話」とは大きく変化し伝統的な枠組みから逸脱する。
                 

                 例えば一寸法師の話では、大人のサイズになった一寸法師が
                姫と共に「末永く幸せに暮らしたとさ」にはならず、傲慢
                (ごうまん)になったことに立腹した姫によって元のサイズに
                戻され、おまけに踵(かかと)で踏みつぶされる。

                 また姨捨山(うばすてやま)の民話でも、命を絶つために山
                に送られたはずの老婆が逆に自由を満喫したりするのである。

                 そこにはナオエを通して作家自身が類型的な形にはまること
                に抵抗し、おざなりの終結に果敢に挑もうとする力が感じられ
                る。
                 

                ナオエの孫娘ムラサキ
                 一方、孫娘ムラサキからは、ナオエのおしゃべりに並行して
                自分探しの物語が語られる。

                 当然ながら彼女には閉鎖的な田舎町の白人社会で唯一の日系人
                として育つ苦悩がある。しかし日本語を話すことはおろか、日本
                の食料品を買うことも拒否したような頑(かたくな)な母親とは
                心通うつながりは得られず「ママの声は空っぽのバケツの中で転
                がる孤独な小さいマッシュルームのようだった」と感じながら
                成長していく。
                   

                 皮肉なことに日本語は話さないものの、その心の空洞を埋めた
                のは言葉の通じないオバアチャンとの交流であった。それによっ
                て否定することの出来ない自分の中の日本人としてのルーツに
                目覚めていくのである。
                 

                ナオエの娘ケイコ
                 物語のハイライトは、ナオエが自分の物語を語り終えた時点
                で、若く力強いヒロインに変身し、家出をしてしまうことだ。
                それはあたかも、ナオエとムラサキの象徴的な一体化を示して
                いるように見える。

                 だがこの事件に娘のケイコは打ちのめされ精神衰弱になるが、
                面白いことに回復の癒やしは、ムラサキの作る日本料理のトン
                カツ・ディナーだったのだ。
                 

                 家族という形を保ちながらも、お互いに理解することが出来な
                かった過去。だが和解することによって、ナオエとケイコ、ケイ
                コとムラサキ、加えて父親シンジとムラサキなどそれぞれの関係
                にある種の光明が見えて来るかに見える。
                 

                 おそらく読者は物語のベースは、ゴトー氏の家族と思うだろう
                が、ゴトー氏自身は本書の冒頭で「この個人的な神話を語り直す
                にあたって、祖母の実際の人生について自由に変更を加えました。

                 この小説は、過去にあった『事実』から出発して、現代の民話
                伝説の領域に到達することを目指しました。ですからこの作品は
                創作と考えてください」と前置きしている。
                 

                 物語の中で何度も示唆しているのは、「読み手は語り手」で
                あるという視点。つまり物語は聞くだけでなく、語りなおして
                こそ意味があるとし、「あなたは物語を変えることができる」
                と記して本書は終わる。



                 読者はそれぞれの立場からいかようにも物語を読み、それを
                自分の中で膨らませることが出来るということだろう。
                 

                日系カナダ人作家の活躍
                 私はゴトー氏の処女作であるこの作品(1994年)以外は読ん
                でいないものの、一時期多かった戦時下に強制収容所に送られた
                日系人の苦難の物語や、その過去と向き合う補償問題をテーマに
                した読み物とはまったく違った、カナダ生まれの、あるいは、
                日本生まれながら幼い時からカナダで育った日系作家が台頭して
                いることを感じる。
                 

                 しかし、どうあがいても日本人の血を受け継いでいるという
                点から逃れられないのであれば、マジック・リアリストと呼ば
                れる彼らが、その特有なバックグラウンドゆえに生み出す新た
                な道がこれからも大いに拓(ひら)けることを期待したい。
                 

                ***************************** 

                「コーラス・オブ・マッシュルーム」(Chorus of Mushrooms
                ヒロミ・ゴトー著、増谷松樹訳(彩流社)
                2,800  

                ***************************** 

                ヒロミ・ゴトー
                 1966年千葉県生まれ。3歳になる直前に家族と共にカナダに
                移住。カルガリー大学英文科卒。バンクーバー在住。
                1994
                カナダで生きる日系人家族を描いた本作「コーラス・オブ・
                マッシュルーム」によって作家デビューし、コモンウェルス処女
                作賞および日加文学賞を受賞。
                 第2作「
                The Kappa Child」(2001)でジェイムズ・ティプト
                リー・ジュニア賞、ヤングアダルト小説「
                Half World」では、
                サンバースト賞、カール・ブランドン・ソサエティ・パラレッ
                クス賞をそれぞれ受賞している。
                 ほかにも児童向け作品、短編集、詩集などの刊行物多数。
                現在は創作インストラクター、ワークショップなどでも活躍。
                作品は若い世代に人気があり、仏語、伊語、ヘブライ語、
                トルコ語などに翻訳されている。
                 

                訳者 増谷松樹
                 翻訳家。1946年横浜生まれ。慶應義塾大学仏文科卒。1976年カナ
                ダに移住。詩人の故ロイ・キヨオカ氏を通じて多くの日系カナダ
                人作家、アーティストと交流する。
                 キヨオカ氏の「カナダに渡った侍の娘
                ある日系一世の回想」
                2002)(草思社)をはじめ、日系カナダ人の和文文献、「日系
                人所有漁船処分顛末覚書」(木村岸三著)などの英訳などの仕事
                も手がけている。
                 





                 
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                トロント発 メールマガジン 「e-nikka」
                0
                  西海岸ルポ

                  デンマン・アイランド(Denman Island)
                  〜カナダで初の自然葬のみの墓地〜



                  ジョージア海峡の島々

                  カナダ本土とバンクバーアイランドの間にあるジョージア海峡には、ざっと数えただけで156の島が存在する。
                  中にはフェリーの航路にも入らず、生活も自給自足で雨水をためて生活するような人々が住む小さな島もあるが、そんな生活も、自分自身が満足し不便を感じない限り可能である。
                   

                  理由の一つは、国内の他の地域と比べて比較的気候が温暖であることが大きいだろう。もちろんまったく雪とは無縁というわけではない。

                  だが多少降ってもすぐに解けることが多いため、どの家にもいわゆるセントラルヒーティングのような設備はない。各種の暖炉と電気ヒーターがあれば、真冬でも十分に間に合うのだ。
                  電気代はトロント地域と比較すると格段に安い。
                   

                  ビクトリアのような都会でも、冬の備えは同じようなものだが、特に海峡に浮かぶ島々では「自然と共生」して生きる生活様式が住民のメンタリティーとして定着している。 
                   

                  デンマン島のフェリーの船着き場 


                  デンマンアイランドの生活

                  そんな島の一つに、ビクトリアの町から車で北に2時間半ほど行った Buckley Bay 沖に浮かぶデンマン島(Denman Island)がある。Buckley Bay の港からフェリーに乗れば15分ほどで到着する。

                  人口は1,200人ほどであるから、極小の島というわけではないが、野菜畑を育てるなどは島民には普通のことで、お互いに出来たものを物々交換したりも日常的に行われている。 

                  denman
                  この時期でも思わず手に取りなくなるりんご 

                  だが、肉類は政府指定の屠殺(とさつ)場がないため、たとえここで育った食肉用の動物でもバンクーバーアイランドに運んで処理するという。島にはゼネラルストア(雑貨屋)、リカーストア、本屋、クラフトの店などはあるものの、人々は定期的にフェリーでバンクーバーアイランドに渡り買い物をする。

                  当然ながら消防署もあり、資格のある救急隊員が本土から2週間交代で派遣されている。
                  加えて、希望する島民は訓練を受けてボランティアとして補助し、緊急時には全員が持つページャーで「
                  911」から連絡が入る仕組みになっている。彼らには税金控除の特典が付く。 

                  病院はないものの、島内の住民によってホームケアの組織が構成されており、ある意味では大都会より心のこもったサービスが受けられる可能性もあるようだ。

                  しかし夏場はツーリストが数多く押し寄せるため、バケーションランドと化し、冬場の静寂は大分失われる。彼らが泊まるB & B の商売をする家々も多いが、今の時期になれば大方が閉められ静けさが戻る。夜などは、それこそ懐中電灯がなければ何も見えない闇(やみ)になる。 

                  日中の日差しも短くなったそんな秋の一日、ちょうどサンクスギビングデー連休の日曜日(1011日)に、カナダの耳目を集めるニュースがこの島から発信された。西海岸の新聞はもちろんのこと、CTV などでも取り上げられたのは、「自然葬専用」の墓地がデンマンアイランドにオープンしたからである。 

                  DENMAN
                  デンマンアイランドの自然葬専用墓地の入り口、島に住む彫刻家 Michael Dennis 氏の作品 

                  もちろん自然葬自体は太古の昔から行われてきたもので珍しいわけではない。とりわけ西海岸では、ファーストネーションの人々がその先駆者であるし、他にも国内に4〜5カ所あるという。
                  だが、近代における一般人を対象とした埋葬方法としてはまだ目新しく、その「専用墓地」というのはカナダでは初めてなのだ。
                   


                  近代社会の埋葬法

                  近年こうした自然葬が話題を呼び、今、それを支持する人々が非常に多くなっているのはなぜなのだろうか。
                  それは、地球になるべくダメージを与えない「環境にやさしい葬儀」というのが重視され、真剣に考える人々が増えてきたからである。
                   

                  現実問題として、人が亡くなった場合を考えてみよう。

                  北米における普通の手順では、まず防腐剤(ホルムアルデヒド)などの薬品を遺体に使って腐敗を防止する。その後、お通夜(
                  Viewing)のために、特にオープンキャスケット(ひつぎ)の場合は、本人が生前好きだった洋服(化学繊維が多い)などを着せたり、化粧(化学薬品が含まれる)を施したりもする。

                  加えて、お棺も、当然ながら費用によるものの、金属の留め金などがたくさん付いている化学処理をほどこした木材が使われる。 

                  そして埋蔵。いずれお棺全体が朽ちて長い年月の後には土の一部になるものの、どれもこれも化学処理をした材料を使用するため「死して自然(土)に返る」という考えからは程遠いことになる。 

                  では日本人などに多い火葬の場合はどうだろうか。普通は、日常生活の中でこのようなことを考えることは余りないものだが、一人の遺体を火葬するには、車が900キロも走るのと同じ汚染物質を排出するのだそうだ。
                  そして火葬後には遺灰を陶器や金属の壷(つぼ)に入れて、多くの場合、コンクリートで囲った地中に埋め込む。
                   

                   冷静に考えてみれば、どれを取っても地球には害がある方法である。
                   

                  「自然葬」とは?

                  そこで「GreenGreen」と叫ばれている昨今、亡くなった人に一切手を施すことなく埋葬しようというのがこの「自然葬」なのである。
                  こうした動きは、
                  25年ほど前に英国で始まり、今では200カ所にも及ぶという。それが北米にも伝授され、特に自然環境の整っているBC州の人々の間で支持されているのだ。 

                   しかし、墓地の新設となればそう簡単に出来るものではない。
                  デンマン島でもこの秋オープニングにこぎ着けるまでには6年もの歳月を要した。必要に迫られた一番の理由は、島民が亡くなっても、すでにある従来の墓地には、もう埋葬出来る余地がなくなってしまったことによる。
                   

                  DENMAN
                  自然埋葬墓地の反対側にある従来の墓地はすでにいっぱいで余地がない 

                  DENMAN
                  長い間には苔(こけ)むして見苦しくなる 

                  そこで考えられたのがこの自然葬で、島の真ん中にある背の高い潅木(かんぼく)の茂る環境的に配慮された土地(54平方キロメートル)が選ばれ、島民の支持のもとに徐々に開発が進められて来たのである。 

                  埋葬の条件は、防腐剤は一切使用せず、分解性のある繊維で遺体を包んだり化学処理のない木の蔓(つる)などで作ったキャスケットを使い、地下にはコンクリートの囲みを設けないこと。更には、埋葬後は地上に従来型の墓石を置かず、花や木々を植えないこととされている。 

                  DENMAN
                  柳のつるで出来たキャスケット(ひつぎ) 


                  埋葬できるのはデンマン島の住人に限られているが、費用は$1,732.50ほどで済むという。埋葬された第一号は、長い間この島に住んでいた70代の女性で、オープニングの2日ほど前に埋められた。 


                  自然の木々に囲まれた自然葬第一号の人のお墓 

                  計画では、これから100年先までを見越している。敷地の奥に向かって約1,000体を埋葬できるキャパシティーがあり、必要に応じ、周りの木々の除去が行われていく。 

                  DENMAN
                  自然葬墓地の予定見取り図 

                  また、家族が墓参に来た際には、集える場所があり、コンクリートの壁には名前を彫ったプラグをはめ込むことが出来るようになっている。 

                  DENMAN
                  墓参の人々が休憩できる場所。後ろの壁に名前をはめ込むことが出来る 

                  まだこれから整えることも多いのだろうが、いずれにしてもカナダで初の「自然葬専用」ということで話題をまいたことは確かだ。 

                  ところ変わってバンクーバーアイランドのビクトリア市郊外にある広大な Royal Oak 墓地にも「Natural Burial」と称するエリアがあり、同じコンセプトの墓地が存在する。 

                  DENMAN
                  背の高い木々に囲まれた自然埋葬地の一角。白木の棒が目印になっている 

                  DENMAN
                  名前が刻まれている御影石(みかげいし) 

                  デンマン島の日本人移住者たち

                  話は変わるが、デンマンアイランドには何人かの日本人移住者も住んでいる。

                  カナダの日系作家の作品を翻訳する仕事を続けている人もいれば、リタイアする以前には、有機栽培の原料を使って味噌の製造を商売にしていた人もいる。
                  また、ゴルフが好きで、西海岸にお子さんたちが住んでいるなどの理由からトロント近郊の町での生活にピリオドを打ち、ここに居を構えた人もいる。
                   

                  いずれも都会では考えられない広大な土地を所有し、ご夫婦で畑仕事、キノコ取り、薪(まき)割りなど、大自然の中でゆったりと時間に迫られない日常を送っている。
                  島の人々との付き合いはもちろん重視しながらも、決してお互いの生活に深入りしないことが暗黙の了解になっているようだ。 

                  島民になって2年ほどのご夫婦は、島での人間関係を「都会でいうボランティアのあり方とは違ったマインドがここにある」と話す。「トレイドイン」という言葉が日常に使われ、例えば音楽のレッスンに対するお礼に海苔(のり)巻きを作って持っていけば良し、などということもあったりする。

                  都会ではありえない「 Give Take」 の付き合いが生活の一部として根付いている島。自然と共生しながらの居心地のよい生活を楽しんでいることは疑う余地がない。 
                  | - | 09:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  カナダの一夫多妻社会(Polygamy)
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                    ヴィクトリアの海辺から


                    Vol.10(2015年10月27日)
                     
                     
                    その日私は、早朝のアポがあったためコーヒーを飲み飲みサーッと新聞に目を通していた。

                    もしそこに、デップリと肥え黒い野球帽をかぶった「あの男」の顔写真がなかったら、きっと見落としていたことだろう。それほど小さい記事だったのだが、表題に「Polygamy」と書かれていたこともあってハッと目が釘付けになった。

                    すでに78年も前になるが、当時のマスコミが盛んに取り上げていたニュースの一つが、このウィンストン・ブラックモア(Winston Blackmore)という男が組織する宗教セクトのことであった。

                    BC州の話であったから西海岸では特に話題をさらったことであろうが、男はロッキー山脈の麓にあるBountifulという町の近くで、宗教の自由を盾に「神の名のもとに」一夫多妻制社会を形成しているのである。

                    この宗教団体のことは、すでに何度か報道されていたいたのだが、その時はヴァンクヴァー・サン紙のDaphne Bramham記者が『The Secret Lives of SaintsChilds Brides and Lost Boys in Canada’s Polygamous Mormon Sect』と題する本を上梓したことに加え、テキサス州の同種のセクトに警察の手が入ったことで更なる脚光を浴びたのである。

                    吐き気を催すほど気色の悪い話でにわかには信じがたいのだが、セクトの長であるこの男には24人ほどの妻がいて、その女性たちとの間に100人以上の子供がいるとか。(一説によれば130人以上とも言われる)

                    カナダでこのような事がまかり通ることにまず驚くが、その子供に配られる国からのチャイルド・ベンフィットだけでも月に43千ドルほどあるという。

                    しかしカナダ人として出生届けが出ていれば国は支払いを拒否することは出来ないのだろうが、税務署が詳細を調べるといろいろときわどい不正も発覚しているという。


                    この宗教団体はモルモン教に根ざした組織で、問題になっているのはお金の事ばかりではなく、人権蹂躙(じんけんじゅうりん)もはなはだしいセクトのあり方なのだ。

                    暴力は日常的に行われ、教育も十分に与えず、また
                    16歳以下の女の子たちを自由にアメリカの同様のセクトに移動させ、有無を言わせずに指導者が選んだ相手と結婚させるのである。

                    その相手はと言えば、450歳も年上の男性である場合が多く、更には強制的に子を産ませ「出産は天国への道」などと言う信じがたい教義を立証しているのだ。子供たちは狭いセクト以外の社会を知らないため逃げることも出来ない。

                    当然ながら、BC州は以前から問題を十分に把握しており、2005年にはRCMPによる調査が開始された。しかし問題が余りにも複雑で大鉈を振るには莫大な費用がかかる。

                    それでも今回新聞に載った小さな記事によると、リーダーのブラックモアの組織する一夫多妻制度のあり方について、裁判員制度に持ち込むために十分な証拠があるかどうかをまず決めるために動き出したことが書かれていた。

                    恐らく50人以上もの女性を殺害したと言われる元養豚業者Robert Pictonの裁判と同様、果てしもなく長い裁判になることは容易に想像できる。

                    そして長引けば長引くほど無駄な税金が使われるのだ。理不尽な話である。(ため息!)
                     





                     
                    | - | 06:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    最長在位の英国女王、クイーン・エリザベス2世
                    0


                      BC州副総督公邸で市民参加の祝賀ガーデンパーティー

                       

                       美しい銀髪、あるいは、目も覚めんばかりに明るいドレスに合
                      わせての帽子をかぶり、品よくまとめたベストドレッサーぶり
                      は、英国民をはじめとする世界の多くの人々に好感をもたれてい
                      るエリザベス女王(89歳)。 


                      エリザベス英女王(2015年3月に撮影)〈Wikipedia より〉 

                       父君のジョージ6世の急死と共に即位したのは1952年2月
                      6日で、翌53年6月2日には史上で初めて戴冠式がテレビ中継
                      され、荘厳な式の模様が地球を駆け巡った。 

                       その女王が、9月9日(水)で高祖母(祖父母の祖母)の
                      ビクトリア女王(18歳で即位、81歳で死去)を抜いて、在位が
                      歴代最長になった。

                       はっきりとした数字で表すと、同日の午後5時半ごろ、
                      高祖母の2万3226日(63年216日)16時間23分を超えたという。
                      これによってエリザベス女王は英国史上最長在位の君主となり、
                      加えて最高齢の君主でもあるということになる。 

                       女王自身はその日に特別な式典は望まず、スコットランドで行
                      われた鉄道の開通式に夫君フィリップ殿下と共に出席するなどの
                      公務をこなし、淡々として一日を送ったという。もしそれを祝
                      えば「高祖母の死を喜ぶことにつながるから」との理由であった。

                       ただ「人は長生きすると多くの節目を通り過ぎるもので私も
                      同じことです。
                       国内外から届いたたくさんの優しく感動的なメッセージに感謝
                      します」とコメントを発表した。 

                       とは言え、ロンドン市内ではテムズ川で船のパレードが行われ
                      たり祝賀ムードが広がり、王立騎馬砲兵がグリーンパークで41
                      発、名誉砲兵中隊がロンドン塔で62発の祝砲を打つなどの儀式
                      が繰り広げられた。

                       大々的な祝賀祭はなかったものの、ロンドンっ子たちが喜ぶ姿
                      は、ニュースとして世界に流れ、それはまさに女王の人気を裏付
                      けるものであったようだ。 

                       周知の通り、英国は世界に散らばる Commonwealth of
                      Nation(英連邦加盟国)53カ国ほどをまとめている国で、
                      その長に立っているのが女王である。

                       カナダもその傘下の一つであるため、この国の国家元首と
                      して君臨するのは女王で、その下に女王の名代として総督
                      (現在は David Lloyd Johnston 氏)がおり、各州には
                      副総督が存在する。 



                      副総督公邸の近辺には誰もが自由参加できることが書かれたポスターが張られた 

                       今回の祝賀は各州ごとに行われたのだろうが、BC州の
                      場合は Judith Guichon(ジュディス・ギィション)副総督が、
                      9月12日(土)にビクトリア市にある公邸の芝生の庭を開放
                      して、市民が自由に参加できるガーデンパーティーを取り
                      仕切った。

                       この日は穏やかなそよ風の吹く快晴に恵まれた一日で、
                      午後2時からのパーティーにはおよそ1000数百人が参加して
                      華やかな雰囲気に包まれた。 

                      Queen
                      庭園常設の舞台では当地でよく知られている The Commodores Big Band
                      が終始演奏し雰囲気を盛り上げた  


                      Queen
                      入り口で来場者一人ひとりと握手するジュディス・ギィション副総督(右から2人目) 

                       誰でもが気兼ねなく参加できたのだが、条件としては「帽子と
                      手袋の着用」がうたわれていた。

                       カナダでそんなことを守る人たちがどれほどいるか疑わしかっ
                      たのだが、当日行ってみると、案の定、ちゃんと規則を守ってい
                      たのは10%にも満たなかった。 

                      Queen
                      何処もかしこもカナダの国旗が一杯

                       「それがなくてもパーティー会場に入れるのですか?」と聞
                      いてみると、セキュリティーいわく「まあね、一応そう決めら
                      れてはいるけど・・・」とあいまいな返事。

                       いかにもおおらかなカナダらしく、決まりはあってもないよ
                      うなものであった。 

                      Queen
                      パーティーの前にスピーチをする副総督 

                       当然ながら最長在位をたたえる言葉が並んだが、中でも女王
                      の人となりに及ぶ祝辞には参列者一同がうなずいていた。国民の
                      人気を支えるのは、君主としての強い責任感とどんな時代にあっ
                      ても柔軟な姿勢で適応してきたことが高く評価されているのは疑
                      う余地がない。

                       即位40周年(1992年)で、女王が使ったラテン語の「Annus
                      Horribilis アナス・ホリビリス(苦難の年)」という言葉を記憶
                      している人も多いだろう。 

                       庶民感覚で見ても、その年に限らず、英国王室は波風の多い
                      家族問題が目白押しの一家である。

                       チャールズ皇太子とダイアナ元妃がダブル不倫の末に別居、
                      離婚、そして元妃の事故死。次男のアンドリュー王子、長女の
                      アン王女の離婚。
                       また孫のハリス王子の醜聞も加わり、さぞや親として祖母
                      として苦労の多かったことだろうと察する。 

                       英国の某世論調査によると、女王の人気度は過去2人の女王
                      たち(エリザベス1世とビクトリア女王)の人気度を併せたも
                      のよりも高いとかで、「女王中の女王」との評価を得ていると
                      いう。 

                      Queen
                      テントがあちらこちらに張られ、庭一杯の参列者たちは思い思いにくつろいでいる

                      Queen
                      中でも一番目立ったのは赤い帽子と紫のドレスが特徴である「Red Hat Society」
                      という婦人グループから出席した女性たち 


                      Queen
                      来場者全員に配られたスイーツ 

                       会場に集まった人々は、女王が健康に留意してこれからも出来
                      るだけ長く在位してほしいとの思いから最後に「God Save the
                      Queen !」の歓声をあげ式典を終えた。 

                       なお付随だが、会場のBC州副総督公邸は2009年に天皇皇后両
                      陛下が日加修好80周年でカナダを訪問をされた際に公式夕食会
                      が開かれた場所である。

                       また、1953年、エリザベス女王の戴冠式に出席のため、当時
                      皇太子だった天皇陛下がカナダ経由で英国に行く際に、初めて
                      外国の地で泊まられたのがこの副総督公邸であった。しかし、
                      当時の建物は火事で消失し今の公邸は新しく建てられたもので
                      ある。 

                      Queen
                      公邸の正面玄関 

                      Queen
                      2009年ご訪問の際の記念写真が庭のパネルに飾られている。皇后陛下もご一緒
                      だったが、なぜか天皇陛下の写真しか載っていない (2015年5月筆者撮影)


                       皇后美智子さまが写真に入っていないことに関して、私は不思
                      議に思い副総督公邸にメールを送り聞いてみたのだが、「ご訪問
                      時の一番よく撮れている写真を載せただけで他意はない」との
                      回答であった。 

                      Queen
                      公邸の居間には、天皇皇后両陛下の公式写真と共に高円宮久子妃の写真(2枚)も置
                      かれている (2015年5月筆者撮影)





                       

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