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寄稿文 カナダ - 日本

タイムスリップ-「COVID-19」の日々
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    先ずは下の6月5日分を読んで頂き、その後、真下の追記6月15日をお読み頂きたい

     

    追記:6月15日

     

    「あと少々で整理が終わる」などと記したが、それはまったく甘い考えだっと気付いている。今日6月15日(月)でもまだ作業が続いており、いささか疲労気味である。

     

     とは言え途中で終わらせる積りはないのだが、微に入り細に入り書かれている「過去」は、私の一代記であることに間違いない。

     

     しかしこうして読み続けて見てつくずく思うのは、「人の記憶のあいまいさ」である。

     

     頭の中で「記憶している」と思っていることが、実は「自分の都合の良いこと」のみを覚えていて、実際にはそれに付随する諸々のことは忘れていることが多いのだ・・・と思い知らされる。

     

     そしてその「記憶」は、何度も繰り返し思い出すことで「真実」になって行き、時には後から起こる関連の経験が加味されて「本当の真実」が歪められていく事もある。

     

     個人の体験でさえことほど左様なら、現在のように情報などが行きかうこと等なかった昔の歴史は、よく言われている事ではあるが、実際には何処までが真実かは分からないものである。

     

     

     

    6月5日 記

     

      非常に私事ながら私は人から「整理魔の敬子さん」と称されることがある。とにかく家の中が整理整頓されていないと、他に何も手につかないのである。

     

     とは言えそれは、自分の設けた基準に沿ってのことであるから、他人から見れば「エッ、この程度で?!」と揶揄さるかもしれないし、もっとすごい片付け魔の人もいる事だろう。

     

     だがこんな性格を褒めて下さる方は「いいじゃない、いつもきちんとしていて」とおっしゃるが、時に自分で自分の首を絞めてしまいかねず、息苦しさを覚える事があるのは困ったものである。

     

     でもこんな性格は、幼少期からのものと兄弟たちは言う。幼い頃の性格が歳を重ねても変わらない例えに『三つ子の魂百までも』というのがある。

     

     それをまるで地で行っているような結果を見るのが、オフィスとして使っている自分の部屋の作り付けの戸棚である。そこに納まっているのは42冊の日記帳と30冊の重い分厚いアルバム(学校の卒業記念などの数冊は別)である。

     

     COVID-19のために、3月半ばから否応なしに家に居ることを課せられている日々に、私は家中を掃除し私物の有りかの詳細を家人に伝えた。

     

     今は若い人の多くもウィルスに感染することが分かっているが、当初は「主にシニアが疾患する」と言われていた。まさにその部類に属する自分が、もし緊急入院して最悪のことになっても、残された家族が私の私的な所有物の処理に困らないようにとの配慮からだった。

     

     私は物書きという仕事柄、取材に使った大量のノート類、元原稿のコピー、新聞・雑誌・パンフレットなどの切り抜き、数々の写真、インタビューのテープなどが山のようにある。年初頭にはいつもかなり整理するものの、今回はタップリの時間を使いそれ以上に断捨離を試みたのだ。

     

     だが最後に手を付けなければならない『砦』が、この大量の日記とアルバムと相成ったのである。さて何処から始めようかと思案の末、兎に角アルバムも日記も形やサイズに関係なく、表紙に書いてある番号順に並べ直し、時代を追って過去にさかのぼる事にした。

     

     物思う心をノートに記すようになったのは、17歳(高二)の春。良くある話でチョッピリ陳腐だが、同級生に片恋慕して何編もの詩をノートに書き出したのが始まりで、その後乙女心の発露として日記を日々記すことになったのだ。

     

     何ともやるせないほど純粋で、可愛らしく、微笑ましくもあるが、思い返せばそれはすでに数十年も前のこと。以後は長い人生の合間にonoffで書き続けた人生記録が2000年前後まで続きこの42冊に収められているのだ。それ以後は、取材ノートにまとめたり、一年事のagenda bookに記されているが、これは数に入れたいない。

     

     

     一方分厚いアルバムも幼少期から時代を追ってまとめてあり、まるで「これでもか!」と言わんばかり。

     

     ちょっとした添え書きや旅先の地図、絵葉書、心に残る年賀状や友人からの手紙などと共に、実に整然とページからページに生きた証が貼られているのである。

     

     

     人生に悩み、迷い、はたまた希望に胸膨らませて成長して行った日々。中には思いを寄せてくれた男性たちからの恋文や詩編集も幾つか残っているが、その昔日の日々は当然ながらもう戻っては来ない。

     

     もちろん現在住むこのカナダ・BC州・ビクトリア市を、夫と共に終焉の地と定め移り住む迄には、独り身の時も家族を持ってからも何度か引っ越しをしている。だがその度にヤドカリのようにこれ等の荷物も一緒に運んでいた。

     

     しかし現況のように「不要不急以外の外出を控えるように」などの規制の日々は過去に一度もなかったことで、忙しい日常を送ることに終始して来た。その為に過ぎ越し方を日記とアルバムと共に紐解く時間などなく、今に至ったのである。

     

     あと少々で整理が終わる。COVID-19の終焉が早からんことを心から祈りながらも、今回じっくりと時間を掛けて我が人生を振り返り、時空を越えてタイムスリップする機会が与えられたことを心から感謝している。

     

     そしてしみじみと思うのは、自分なりに精一杯生きて来たことに一切の悔いはなく、思い残すことがない人生を精一杯生きてきたと自負出来ることに満足している。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    | - | 02:58 | comments(0) | - | - | - |
    COVID-19 とVictoria市のホームレス問題
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      街中にTent City 再現

       

       コロナ、コロナで夜が明けて、コロナ、コロナで日が暮れる。そんな日々が続くこの4か月ほど。人影の消えた世界の町々の写真を見るのは、もう全く珍しいことではなくなったが、ビクトリアも例外ではない。

       

       そんな静まり返ったダウンタウンの、Vancouver St.Quadra St.の中間のPandora Ave.にあるホームレス互助機関「Our Place」前に、4月初めごろから所狭しと張られたテントが出現した。

       

      ホームレス互助機関「Our Place」の正面玄関 (通常時)

       

       すでに歩道の脇にはポータブルトイレも設置されている。テントは他にもダウンタウンから少し離れたTopaz Park, 海沿いに広がった広大なBeacon Hill Parkにも多々見られる。

       

      ダウンタウンのど真ん中にある「Our Place」前に張られたホームレスのテント

       

      不衛生な環境での生活ため、各種の害虫がはびこる。ペストコントロール会社が視まわりをする

       

       この現象は、通常なら当互助機関や市内に数か所あるホームレス用の宿泊所に泊まる人々が、「2m間隔規制」によってはみ出され、テント生活を余儀なくされているためである。

       

      海岸の流木を集めて造られた海岸沿いの小屋

       

        各テントの中に何人住んでいるかは定かでないが、海岸にも流木を使っての小屋が建てられており、これから増々増えるであろうことは疑う余地はない。仲間内のクラスター問題も大きな心配事だ。

       

       現在彼等が気を揉むことは、住居の確保と同時に、毎日の食事にありつけるかである。「Our Place」で働く800人ものボランティアが、自宅待機になっているため、日に1400食も用意することが可能かどうか。その影響が自分たちに及ばないかが心配なのだ。

       

        しかし極めて少数のレギュラーのスタッフのみで、いまだに食事を提供していると言う。その苦労は並大抵のものではないだろう。

       

       覚えている人も多いだろうが、2016年にダウンタウンのBC州裁判所の裏庭に、ホームレスのTent Cityが出来て大きな問題になった。

       

      BC州裁判所(後ろの建物)の裏地に張られたテント。問題が解決した頃は、この5倍ほどのテントが張られていた

       

       ビクトリア市は試行錯誤の末、大方を低賃金のアパートや古い建物を改造して入居させた。もちろんそれで問題が解決したわけではなかったが、今その跡地はきれいに整備され遊園地に変身した。

       

      現在は整備され遊園地に変身した

       

       私は当時足繁くここに通い、多くの人にインタビューを試みた。

       

       彼らの言い分をすべて信じることは出来なかったのだが、明らかな精神疾患者、薬物の過量投与者、アル中患者、家庭内暴力からの逃避者、学習障害者、失業者等など、それぞれの理由を抱えていることに胸が潰れる思いを何度も味わった。

       

       もちろん彼等の住居を確保することは最重要であるものの、その後のケアが更に大切なことは言を待たないとしみじみ感じたものだ。それは疾患からの快復に加え、自身が生きることに誇りと自信を持つこと。

       

       自分の手で収入を得る道を探り、社会復帰することの大切さを学ぶこと。それなくしてホームレスの問題は絶対に解決をみない。

       

       だが言うは易しで、その道のりが遠い事は誰でも知っている。

       

       特に薬物に一度手を染めると更生に困難を極めることは、度々登場する有名人のニュースでも知られている。

       

       

      イタリアのドラッグ更生施設

          「San Patrignanohttps://www.sanpatrignano.com/

       

        ブーツ型の国イタリアの、中央に位置するフィレンツェ市の北方に、40年の歴史を持つ非営利団体の中毒者更生施設San Patrignanoがある。

       

        主にはヘビードラグユーザーの若者たちを対象にしているが、アルコール中毒、摂食障害、ギャンブル依存症などの問題をかかえている人たちにも援助の手を差し伸べており、世界で一番大きなリハビリ施設の一つとか。常時千数百人程度を収容していると言う。

       

       最近私の身近な人が、当地を訪れ施設を見学したためその印象を聞くことが出来た。

       

       運営は、国連薬物犯罪事務所や欧州治療共同連合会等など、多くの国際組織の協力によって実現可能になっているため、入所費用は皆無と言う。本人は勿論のこと、家族に対するサポートもあり、行き届いた細かいサービスが受けられる。

       

       立ち直りのためのユニークなプログラムに参加しながら、人間として自立し社会復帰を目指すのである。

       

       12の例を挙げれば、美味しいパンを焼く職人を育成したり、施設の広大な敷地に500頭も飼っている牛からチーズを造る職人を育て、それ等が高い評判を得ているため、一般市場への販売ルートの確保もしている。

       

       またセンスがあり手先の器用な人には、将来ファッション界で働けるような道が開けるための手助けもする。

       

       そして何よりも大切なこと‐若者たちに将来の希望を持たせ、生きる道を開かせるのである。

       

       もちろん立ち直りには個人差があるものの、施設を離れることが出来るようになるには、最低3年ほどの月日を要するとか。

       

        家族や周囲の人々との正常な関係が保てるようになることが一番の目的であるが、ドラッグ常習者の更生率は72%と言われており、厳しい現実がある事も確かなようだ。

       

       人としての尊厳を回復することが出来るこんな更生施設が、もしカナダにもあったらどんなに素晴らしいか。数々のテントを見ながらそう思わずにはいられない。 

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

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      映画『主戦場』を観て
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         この映画の感想に関しては、すでに原稿を一本バンクーバー新報の自分のコラムに書いているのだが、更なる思いを付け加えたく再度同じトピックをまとめたいと思う。


         重複する部分がある事をお許し頂きたい。2 月上旬に開かれたVictoria FilmFestival(VFF)は毎冬この時期に開催される。余談だが、数年前にトロントから当地に国内移住した時、私はここにもFilmFestival がある事に小躍りした。

         

         知る人も多いことだろうが、Toronto InternationalFilm Festival (TIFF)は市を挙げて大々的に開催され大きな収入源になっている。TIFF が世界の名立たる映画祭と違うのは、コンペティションがないためで、ハリウッドや欧州、または日本からの参加者たちは、とてもリラックスしてフェスティバル自体を楽しむ雰囲気がある。

         

         お陰で私も世界各地の映画祭で数多くの賞を取っている是枝裕和監督や、ユニークな作品の多い黒沢清監督等などにお目に掛かった。

         

         初めて体験するVFF では、詳細を知らなかったゆえに二つの映画祭を同列に考えてしまい規模の小ささに驚いたのだ。とは言え2 月の寒い夜にわざわざ映画を観に出かける人がいる事や、今年は話題作の『主戦場』が上映されるなど、それなりにインパクトをもたらしている事を知った。
         

         日韓に横たわる禍根
         

         この作品は戦後74 年経った現在も、日韓の間で決して癒えることのない禍根を残している日本軍によって組織れた戦時下の慰安婦問題についてまとめたものである。
         

         監督は米国フロリダ生れ(1983 年生)の日系アメリカ人二世ミキ・デザキ氏。私がこの作品に何よりも興味を持ったのは彼の出自であった。日本人でも韓国人でもない30代半ばの日系二世の男性が、この問題をどの様にとらえキュメンタリーにしたかを知りたかったのだ。
         

         監督は日米韓の国々から政治家、ジャーナリスト、弁護士、歴史学者、憲法学者、教育学者等など27名もの人物にインタビューを試み、彼等の考え方と言い分を引き出している。これ程の人数を登場させることが出来たのは、監督自身も言うように、彼がどちらの国にも属さない人であったからだろう。
         

         ドキュメンタリーというのは、どの立場から制作しようと必ず賛否両論が聞かれるもの。この作品も例外ではなく、まして慰安婦問題は単に二国間の人道問題として片付けることは出来ない歴史、社会、政治、経済、民族、文化的問題が背後に複雑に絡んでいる。

         

         にもかかわらず監督は、戦争中に米国が日系人を強制収容所に送り、後に補償を行った問題と何処かに共通点を見出したいとの意図が見える。その視点は単純過ぎると言わざるを得ない。


        女性に対する尊厳の問題
         

         現在登録されている韓国の元慰安婦で生存しているのは21 人とか。もちろんその女性たちはすべて高齢者であろう。となれば彼女たちが日本政府に対する運動の先頭に立っていることはもはやあり得ない。

         画像に写る黄色いシャツを着て活動を行っている(主に)女性アクティビストたちは、祖母が慰安婦であったか、或いは運動に共鳴する若い世代と想像する。
         

         インタビューされた人の中には、こうした女性活動家たちを指して「皆余り美しくない女性たちで、こうした運動をすることで自分の存在価値を見出している」といった趣旨の事を言う人さえ登場させている。
         

         実に驚くコメントだが、それが事実か否かは別として彼女たちは最後の生存者が亡くなるまで活動を続行するだろう。加えて外国(特に米加)では、経済的政治的に力のある華僑の人々と組み、問題の根本とは違った方向に動いていると言われている。
         

         その行動の一つが次々に設置される慰安婦像である。加州グレンデール市では公共の場に立像したため、大阪は姉妹都市関係に終止符を打った。またトロントでは5 年前に市から許可を必要としない私有地の韓国人会館の表玄関に建立され大々的な除幕式を行った。

         

         賛同するカナダの政治家たち数人も出席したが、「性奴隷」「20 万人の慰安婦」「強制連行」などの言葉が先行するだけで彼等がどの程度詳細を知るか疑問視する向きは多い。
         

         ベトナム戦争では米国に加担した韓国が、自国の女性たちを戦場の兵士のために送っていたことがフィルムの中でも語られている。私は日本軍による慰安婦問題を否定する気は一切ないし、戦時中は米国、ドイツ、フランスなどでも同様なことが行われたなどと過去の歴史を弁明する気など毛頭ない。
         

         戦争は人間を狂気に落とし入れる。どの例を見ても「女性に対する尊厳の問題」であることが共通している。ならば建てられた慰安婦像の横に「戦争の狂気によって女性が汚辱されることを今後一切なくしていこう」と称する別のプラグを掲げるのはどうだろうか。

         

         「#Me Too」のように女性の尊厳を守るために世界の女性が一致団結することは不可能だろうか。

         

         

         

         

         

         

         

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        英王室のご立派な決断
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           ヒラリー氏

           

           

           おやおや、現代版シンデレラ姫のお話しは「ここで極まれりか・・・!?」そう思った人は世界中にワンサといるに違いない。

           

           今更詳細を書くのは止めよう。

           

           ただ元王族の一人だったハリー王子と、色々と曰くあるアメリカ女性メーガン妃が、英国王室での地位を無くしたことで、カナダ・BC州のビクトリア市(以下V市)郊外に住むことが確実になりつつある。その町に住む者として、感じることを書いておきたいと思う。(称号は1/20以前のもの)

           

           まずこのニュースは、ヘンリー王子一家が恒例のノーフォーク州にある王室の別邸「サンドリガム・ハウス」で、エリザベス女王とクリスマス休暇を過ごさなかったこと。代わりにV市郊外の知人の屋敷に来ていたそうだ・・・、と言うニュースが人々の口に上ったことから始まった。もちろん地元紙のTimes Colonistがそれを報じたからだ。

           

           英国色の強い白人中心の小さな町V市。ニュースのスポットが当たることなど滅多にない静かな町V市。そんな場所で世界屈指のセレブ一家がクリスマス休暇を過ごしたとなれば、それはもう一大事件!ある事ない事を人々が囁やくのは無理ないと言うものだ。

           

           夫妻がカナダを選んだのは、イギリス連邦の加盟国であり英連邦王国の一つであるからに他ならない。加えて昔メーガン妃がカナダに住んだことがあり、良い思い出があるからと言うのも一つの理由だったとか。

           

           しかし日が経つごとに増える情報に伴い、常識あるカナダ人たちは「もし本当にカナダに住むことになったら、警備費はだれが?」と言う疑問だった。

           

           

           想像を絶するほどの費用は、RCMP(国家警察)が賄うことになると予測するのが常識と言うもの。カナダは立場上「来るな」とは言えない。さりとて彼らが居を構えても、世界にV市の名前が知られる以外に得になることは殆どないと言っても過言ではない。

           

           まあ例えば屋敷を購入するのなら不動産屋は儲かるだろう。

           

           すでに大手の不動産会社社長が、ニュース流出直後のインタビューに笑顔で答えていた。また屋敷の維持のためメイド、料理人、庭師等などが雇われる可能性があるかもしれない。

           

           となれば当地の人々の雇用促進に多少は貢献するかもしれない。また将来子供が私立校(当然!)に通うようになれば、学校は知名度が上がり関係者はホクホクかもしれない。だが現時点ではすべて「かもしれない」の域を出ない話である。

           

           微細に渡り報道される王室関連の収支が想像を絶する額のため、一般市民には「夢物語」を聞かされているようで現実味が薄い。そんな思いを反映してか、今月初旬の世論調査では73%が夫妻の移住に反対との結果が出た。

           

           だがよく考えて見れば、メーガン妃は多少ハリウッドで名の知れた女優ではあったにしても、結婚後「お妃様/サセックス公爵夫人」と呼ばれるようになったにしても、こんな高額のお金が動く生活は結婚前迄はやはり「夢物語」であった筈だ。

           

           それがどうだろう。王子様と結ばれ子供を出産し王室内での地位を確固たるものにしたことで、本来の自我の強いアメリカ女性に逆戻りしたのではあるまいか。

           

           幸運にも美貌であるとは言え、強烈な人種偏見のあるアメリカで、黒人とのハーフである出自には苦い思いもあったろうし、白人の父親との確執、すんなりと別れたとは思えない離婚歴もある。

           

           となれば人生の酸いも甘いも知っている38歳の筈で、自分で勝ち取った人生には絶対なる自信を持っている事は疑う余地がない。

           

           大学時代のスイートハートであったウィリアム王子と結ばれた世の荒波知らずの義姉キャサリーン妃とは大違いで、堅苦しい王室に馴染めないのはよく分かる。

           

           一方お相手はと見れば、生まれた時から王子様として温室の中で育った3歳年下の世間知らずのお坊ちゃま。ただ一つ彼が背負っている拭いきれない悲しみは、わずか13歳であのような形で母親を亡くしたことだ。

           

           これが理由でパパラッチを憎悪し、出来うる限りそれから逃れようとする気持ちには同情する。しかしカナダに移住したからと言って、よもや彼等から逃れられるなどの甘い考えを持っていないことを切望する。

           

          クリスマス休暇でカナダのビクトリア市を訪れた時の写真

           

          今後状況は刻々と変わるだろうが、1/20エリザベス女王の声明は:

           ―娑聞澆慮務を退く

           殿下などの称号を失う

           8費支給は受けない

           ➃新居として改造したお城の改修費を返却する。

           

           つまるところ夫妻が望む自由な生活をしながら王室の仕事も時には係わると言う「いいとこ取り」は許さないと言う厳しいお達し。

           

           色々取り沙汰されても、要はハリー王子一家が満足の行く生き方を選べることが一番大事。クリスマス直後のローカル紙の論説を借りれば「When Royals visit(今はlivehere, Let them be, let them be」。

          まさにその通りであろう。

           

           

           

           

           

           

          | - | 06:15 | comments(0) | - | - | - |
          ビクトリア大学のブッククラブ
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             ヒラリー氏

             

            コクーン症候群

             

             去年の春行われた東京大学の入学式で「社会には、あからさまな性差別が横行している。東大もその一つ」と喝破したのに続いて、大学で学ぶ価値は「すでにある知を身に着けることではなく、これまで誰も見た事のない知を生み出すための知を身に着けることだ」と祝辞を述べた女性学のパイオニアで社会学者の上野千鶴子東大名誉教授を「知らない」と答える人は少ないだろう。

             

             

             著書は数えきれないほどあるが、2010年に著した『ひとりの午後』(NHK出版)と題した本の後書きには「コラボが好きである。それも未知な領域の人と組んで、自分でも知らなった未知の自分が引き出される経験を味わうのが楽しい」と。

             

             そんな気持ちを持っているからか、一介の物書きに過ぎないカナダ在住の私が著した『カナダのセクシュアル・マイノリティ―たち』という本を上梓した折りに、当時東大大学院のゼミで教えておられた氏に招かれて、学生たちに拙著を紹介させてもらった。

             

             

             引き続きその夏は、「山梨のコテージで缶詰になって仕事をするから」と氏がおっしゃるので、東大の真横のご自宅に一ヶ月ほど泊めて頂いた。

             

             こんなことを長々と書くのは、上記著書の後書きに強く共感するからだ。一般人の場合は、一人の人間が一生に知り得る人の数などたかが知れている。特に歳を重ねていくと、知人、友人の範囲が徐々に狭くなって行く。それを人呼んでコクーン(ミノ虫)症候群という。つまり、自分の殻に閉じこもって新たな出会いを求めないことを言うのだ。

             

             そんな生き方はしたくないと常々思っている私は、上野氏のこの言葉にとても共感する。ともすると同じ顔ぶれ、同じ仲間との交流しかしない日々では新たな発見は少ない。 

             

            松田解子(ときこ)を読む

             

             去年の秋から、ビクトリア大学Pacific & Asian Studies学部のSujin Lee助教授の呼びかけで、韓国人、中国人、日本人など数人が集まりブッククラブが発足した。

             

             

             年齢層は同大の助教授や学生、リタイしたシニアと顔ぶれは多彩で、今は月一回の会合ながら、新たな人々との交流に好奇心を触発されている。Lee助教授は韓国出身だが、日本語、英語共に母語同然に遜色なく集りは日本語で行われる。

             

             読本は日本の松田解子と言うプロレタリア作家が、昭和12年(1937年)に書いた「生殖線」と言う小説。社会的地位の極端に低かった戦前の日本女性が、結婚の有無によらず、大方が通過していく性、妊娠、出産、子育ての体験を通して当時の日本社会のあり様を描いている。

             

             

             この作品ばかりではなく、彼女の著書は一貫して声を発することの出来ない市井の人々、虐げられた労働者たちなど、20世紀初頭の社会革新の動きを中心に、資本主義への発展の側面を描いたものが多く、作家自身の生きた時代が強く背景に滲み出ている。

             

             生れは1905年(明治38年)で、当時存在した秋田県の荒川鉱山村。土地の小学校を卒業後、鉱山の事務所でタイピストとして働きながら文学に触れていった。 

             

             その後は秋田女子師範に入学し母校の小学校に赴任したが、21歳で職を得て上京。労働運動を通して知り合った大沼渉と結婚し、家庭を築き子育てを経た事が初期の作品に生かされている。

             

             亡くなったのは99歳になった2004年(平成16年)で、文字通り明治、大正、昭和、平成の4年号を生き抜き、今で言う「人生100年時代」を地で行った女性であった。

             

             解子の生存前後に婦人解放運動で活躍した女流作家たちには、平塚らいてう、与謝野晶子、田村俊子などがいる事も時代を反映していて非常に興味深い。

             

             

             

             

             

             

            | - | 20:38 | comments(0) | - | - | - |
            天照大御神の思い出
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              ヒラリー氏

              11月27記

               

              大嘗祭

               

               周知の通り日本は5月1日の新天皇の即位に伴い、「平成」から「令和」へと移行した。以来この半年の間、国を挙げて各種の行事が続き11月半ばの「大嘗祭」をもって一区切りがついた。

               

              テクノロジーの発達した昨今では外国住まいでも、日本と同時進行でこうした数々のイベントを見ることが出来た。

               10月には国内外に即位を宣言する「即位礼正殿の儀」が行われ、170以上の国と地域から要人が参列。

               

               華やかな「饗宴の儀」が幾度となく開かれ、11月に入ってからは、「祝賀御列の儀」と呼ばれるパレードが皇居から赤坂御所まで走行し、沿道には11万9千人が集まったという。

               

               

               今や「自然災害大国」の汚名を着せられても不思議ではない日本は、この時期次々と台風が襲い各地に災害をもたらした。そうした犠牲者に配慮し、予定のパレードを3週間伸ばしたのは、折に触れ「国民と共に」と言われる両陛下らしい決断と取られたようだ。

               

               そして一連の行事の最後に、一代の天皇が一回のみ行うという「大嘗祭」と呼ばれる‟神道の行事”が、11月4日の夜中から未明にかけて数時間執り行なわれた。

               

               

               日本は神道が国の宗教と定められている分けではないため、この神事に国費を使う事に異論はあるが、政府が「公的性格」があると強調したことで恙なく終えた。

               

               部分的に多少の違いはあっても、基本的に平成天皇のやり方を踏襲した様だが、驚くのは僅か数時間のために総額27億円(!)もの税金が使われたことだ。おまけに神事は密室で行われた為、国民はその成り行きを目にすることは叶わなかった。

               

               

               国民を思いやり、パレードの延期を考慮した両陛下の人となりとは何やら反比例するようだが、落差を感じた人はいなかったのだろうか。

               

               これについては弟の秋篠宮(当時)が去年の誕生日会見で、宗教色の強い大嘗祭への公費支出をめぐって意見を述べられたが、国民を巻き込む大議論にはならなかったのが残念である。

               

              去年6月ハワイで行われた日系人大会にご出席の秋篠宮殿下(当時)

               

               だが某調査によると、この意見に対し「賛成2286、反対179、どちらでもない33」という結果も出ている。

               

               この神事を行う意義は、『国家、国民の安寧と五穀豊穣を、天照大神及び天神地祇に感謝し祈念する』ためという。

               

               供される供物は、今年収穫された米、果物、乾物、魚などが全国から集められ、天皇陛下は、まさか生き返った分けではない天照大神やその他の神々と共にそれ等を供されたと報告されている。

               

               歴史を顧みればこの儀式が定まったのは7世紀というから、すでに1400年もの長きに渡って行われていることになる。

               

               となれば一朝一夕の変化を期待するのは困難だが、側室を排除し、二代に渡って民間から嫁いだ女性が皇后になり、雅子皇后を娘の愛子さまは「ママ」と呼ぶとか言われる時代。

               

               まだまだ過去の幾つもの自然災害によって、経済的、精神的後遺症に苦しみ、立ち上がれずにいる人たちが山のようにいる中、一夜の神事の為に27憶円もの税金を使うことには何ともスッキリしない思いを感じる。

               

               熟慮の末に、排除すべきものは排除する柔軟な姿勢があるべきで、それによって更なる国民の支持が得られるのではあるまいか。

               

              学芸会での天照大御神

               

               日本の神社に行けば何処にでも祀られている、と言っても過言ではない日本神話の主神の天照大御神。私は個人的にこの大御神に関し面白い体験をしている。

               

               それは小学四年生の時に起こった懐かしい出来事である。その頃小学校では「学芸会」という年一回の行事があり父兄に披露した。

               

               この年の四年生は、古事記にある太陽神の天照大御神と弟のスサノオノミコトにまつわる話を上演することになった。

               

               これはスサノオが居住地の高天原で数々の狼藉を働いため、姉は立腹し天岩戸(あまのいわと)に隠れてしまった。

               

               太陽を失ったため世の中は闇夜になり様々な禍が生じた。多くの神々は困り果て、工夫を凝らし岩戸から天照大御神を導き出したため、再び世の中は明るくなり、スサノオは高天原から追放された、という神話である。

               

               天照大御神が女性であることを知った私は、どうしてもこの役をやりたかったのだ。そこで多数決で配役を決める前日に私は一人職員室に行き、如何にこの役をやりたいかを担任に語ったのである。

               

               翌朝のホームルームでは、主役をやりたいと私が名乗り出た事や、その理由を担任が紹介し「異議のある者は手を挙げよ」と聞いてくれた。

               

              天照大御神を演じた筆者(中央右)

               

               結果は誰の反対もなかったことで、私はこの役を貰ったのだが、当時の皇帝と共に夕食を食べたという話しは含まれていなかったのが、今思うと何とも残念である。

               

               

               

               

               

              | - | 07:27 | comments(0) | - | - | - |
              いまだに発見される日本人移民の足跡
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                ヒラリー氏

                 

                日系移民の居住跡

                 

                 今月7日にVintage Newsという媒体から「Abandoned Japanese Village Discovered in Canadian Forest」と題するニュースが配信された。すでにお読みの方もいる事と思うが、内容を簡単に要約してみたい。

                 

                 本土のノース・バンクーバーにあるCapilano Universityの考古学者Bob Muckle教授は、過去14年ほど、春になると学生を引き連れて、大学の更に北方に位置するSeymour River Valley辺りを発掘して来た。

                 

                 目的は今から100年ほど前の192030年あたりに、ヨーロッパから移住した人々の足跡を探るためであった。考古学の発掘と言うのは、予期していた物が全く発見されない事もあれば、反対に予想さえしなかった物が木々やシダに覆われた下から掘り出されることもある。

                 

                 ことは2004年にさかのぼるが、教授は一体を発掘の最中に、日本人が昔居住していたのではないかと思われる幾つもの品々を掘り出したのである。酒の徳利、ご飯茶碗、急須、時計、薬瓶、コイン、ボタン等など一千個以上にも及んだ。

                 

                 

                 たゆまぬ発掘はつい最近まで続行され、過ぎ去った日々この地域に日本人がコミュニティーを造って居住していたことを確信するに至った。

                 

                 それは木材切り出しのための一時的な飯場ではなく、家族共々かなりの人々が住んでいたとなれば、「何故こんな山奥に?」という疑問が湧く。

                 

                 教授はその後の調査で、恐らく町に近い場所では日本人に対する排斥があったり、町中では経済的に困難でもあり、人里離れた山奥へと生活の場を移動したのではないかと言う。

                 

                 居住地域と見られる場所はフットボール競技場ほどの大きさで、辺りの木々は完全に伐採されている。そこに12個ほどの居住跡が見られ、有に4050人は住める広さという。

                 

                 また神社とおぼしき跡も発見され、一番平坦に整えられた一帯には、共同風呂の設備もあったようだと推測する。

                 

                 教授の調査記録によれば、1900年に州政府はHastings Companyという会社に木材切り出しの権利を与え、1918年にはエイキチ・カゲツと言う日本人のビジネスマンにも権利を移譲している。

                 

                 だがそれから6年後地域の伐採を終えた時、カゲツ氏はバンクーバー島にビジネスの拡大を求め移ったとみられている。

                 

                 しかし教授の調査でも分からないことは、この居住地がどれほどの期間存在していたのか、また住んでいた家族の名前なども謎のままであることだ。

                 

                 あくまでも想像の域だが、第二次世界大戦勃発後カナダ政府によって日系人が一掃されて強制収容所に送られる迄居住し続けた可能性はあるとみる。

                 

                 こうした考古学者と生徒たちのたゆまぬ努力によって、埋もれて永遠に省みられることがなかった可能性のある歴史が掘り起こされたわけである。

                 

                ビクトリア市内にもある埋もれそうな過去

                 

                 彼等の努力はまことに称賛に価するものの、ビクトリアの町中にも日系史に取っては大事な場所ながら、近い将来歴史に埋もれてしまいそうな場所が幾つかある。

                 

                 その一つは、ダウンタウンにある日系人教会の真裏(516Fisgard)の、年輪を重ねたみすぼらしい建物である。ここは当時日本からの移民がビクトリアに到着した際に宿泊したオオサワホテルで、今も入り口には持ち主だったオオサワ・リンノスケの姓である「R」が真鍮で埋め込まれている。

                 

                 

                 私が5年前にトロントから国内移住してすぐに見た時と今とでは、建物の様相は衰えるばかりで益々安いアパートと化している。

                 

                 

                 いつの日かこの建物も、新しいビルを建てる金持ちのデベロッパーによって壊され、日系人の歴史が一つ消えるのであろう。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                | - | 21:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                「落書き」という破壊行為
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                  ヒラリー氏

                   

                   人はある事象に何度も触れて慣れてしまうと、以前には嫌悪を感じていた事柄も段々と麻痺してしまうようになる。

                   

                   そんなことの一つに、町中によく見られる「落書き」がある。今に始まった現象ではないので特別に驚かなくなっているものの、最近ビクトリア市内にある公共の建物、指標、バスストップ、ちょっとした路地の塀など等に、得体の知れない落書きが特に多くなったと感じていた。

                   

                  ビクトリア市内に見られる落書き

                   

                   これは個人的に私だけ感じるのかと思っていたら、先日当市にあるDowntown Victoria Business Association (DVBA) Clean Teamという組織が、今年は過去最高の落書き率と報告書を発表した。私の思い違いではなかったようだが、現在すでに2018年の10445カ所を上回っている言う。

                   

                  これはダウンタウンのみの数字で、郊外を入れれば当然ながらその数は計り知れないとか。

                   

                  意味不明な落書き(ビクトリア市内)

                   

                  落書きはカビのごとし

                   

                   ビクトリア市には「落書き消除専門職」が一人フルタイムで働いているそうだが、数が余りにも多く、一つ消除するにも時間もかかりまさにイタチごっこである。

                   

                   落書きをする人たち(taggerと言う)は、大体はスプレーペイントやマーカーを使用するのだが、落書きの上に落書きを重ねている場合は、有毒化学薬品を使うため環境問題を誘発する。

                   

                  きれいに描かれたある会社の建物の絵の上に描かれた意味不明な落書き(ビクトリア市内)

                   

                   またそれによって建物に永久的なダメージを与えることもあり、歴史的な建造物の場合は取り返しがつかない。加えて家主には経済的負担が掛かり、公共の場所では税金が使われるため、この問題は市民にも負担が掛かることになるのだ。

                   

                   描かれている絵や字とおぼしき物は、殆どの場合一般の人には意味不明で理解しがたいのだが、7月辺りから極右翼の象徴とされるナチスの紋章Swastika(卍)が見られるようになったと言う。

                   

                   非常に気掛かりな現象だが、DVBAはどの落書きもすぐに消さないと知らぬ間にカビのようにはびこり、手の施しようがなくなると懸念している。

                   

                   中には落書きはアートだという人もいるが、これは石で窓ガラスを割るのと同じくらい悪質な行為で完全な犯罪だと関係者は言い切る。

                   

                   こうした悪戯をする人物の多くは、すでに警察も察知しているそうだが、現場を押さえるのが中々難しい。証拠を掴むためには、建物等のオーナーがセキュリティカメラを設置し、摘発に協力して欲しいと呼びかけている。

                   

                  会社の前にはベンツなどの高級車が停まっている

                   

                  朱に交われば赤くなる 

                   

                   人間の心理的行動問題に詳しいデンマークのGroningen 大学のKees Keizer社会心理学教授は、「人は悪い環境にいるとそれに伴って悪行を働くか?」という調査を以前実施した。

                   

                   ある街で『落書きをしないで欲しい』とサインがあり、実際何処にもそれが見られない自転車置き場の自転車に、何等かの広告チラシをハンドルバーに挟んだ。その場合、殆どの人はチラシを持って帰り33%がその場に捨てたが、周りに落書きのある場所だと69%の人がその場に捨てて立ち去った、との結果を得た。

                   

                   またもう一つの調査では、封筒に5ユーロ紙幣を入れて人目に付き易い郵便受けに入れて置くと、落書きのない通りでは13%の人がその封筒を盗むが、状況が反対の場合はその数字が倍になるそうだ。

                   

                   環境と人間の心理との関係が如実に垣間見られて面白いが、こんな状況を言い表した日本語の諺に『朱に交われば赤くなる』と言うのがある。

                   つまり人は環境に容易に支配される生きものということなのだ。

                   

                   

                   

                  ここ迄くれば立派な壁画アート?(いずれもビクトリア市内で)

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                  | - | 10:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  ビクトリア・ボンサイ(盆栽)・ソサエティ
                  0

                    ヒラリー氏

                     

                     

                     今年の年初頭から私は「バンクーバー・アイランド・ボンサイ・ソサエティwww.victoriabonsai.bc.ca」の会員になった。まさかこのようなクラブに席を置くなどとは、以前には考えられないことだったため、今でさえ信じられない気がしてならないのである。

                     

                     数年前にトロントから当地に国内移住してすぐに、Art Gallery of Grater Victoriaを訪れた。入り口を入って真っすぐに伸びた廊下を進むと、裏庭に面した所に木枠で囲まれた一角があり、幾つかの盆栽が棚に置かれていた。それによってここにも盆栽を趣味とする人たちのクラブがある事を知った。

                     

                    galleryの裏庭にはこんな神社の模型も設置されている。寄贈された沢山のオリエンタル・アートの収集でも有名である。

                     

                     正直に言うと私の中の「盆栽」とは、仕事を退職したご隠居さん、つまりお年を召した主にお爺さんが時間を持て余して始める趣味・・・と言う印象しかなかったのだ。もちろん頭の中では、今や日本のみならず「BONSAI」は世界的に人気があり、コレクターも沢山いる事は知っていた。

                     

                     とは言え偏見であることは十分に知りながら、日本文化の中で生まれ育っていない人々が、盆栽に興味を持つなどは何か不自然に思えてならなかったのだ。

                     

                     そんな思いを持っていた私が、ではどうして今や月一回の例会に出るようになったかについては、それなりの理由があるのだ。

                     

                     私の夫は道を散策している時など、犬を連れている人や、幼な子の手を引く人々と気軽に言葉を交わし冗談を言って談笑する。私もそんな雑談の中から、土地の人々の考えや行動を垣間見ることが出来るので、決して嫌ではないため彼を急がせたりしない。

                     そんなオープンな人柄だから、新開地に来ても容易に友人をつくれるものと思ったのだが、それが中々難しいのである。

                     

                     だが考えて見ればそれは当然のこと。普通友達作りというのは、それが何であれ同じ趣味などを持つ人たちと興味を分かち合い、何度も会う内に親しくなるものである。

                     

                     トロントにいた頃は軽飛行機の操縦を趣味にしていたため、それを納める格納庫さえも自分で建設したりして友達と呼べる仲間が何人もいた。

                     

                     ところが西海岸に移住するにあたり、幾つものエアポートで給油しつつ、湖や平原を眼下に見ながらロッキー山脈を越えて愛機を運ぶ計画には、色々な理由が重なり無理である事が分かったのだ。そんなこんなで泣く泣く全面的に操縦を諦めた過去がある。

                     

                     と言うことで、今は他の得意分野であるIT関連の知識を磨き各方面に興味の矛先を向けいる。ということは机に向かう時間が半端でなく、体を動かすことが極力少なくなってしまった。

                     

                     これが体に良いわけはなく、心配した私が思い付いたのがBONSAIクラブへの入会であった。

                     もちろん鉢植えの木を前に、矯(た)めつすがめつしながらチョッキン、チョッキンとハサミを入れることが運動になるとは思わない。

                     だがこれなら私も、育った文化的な背景から知識を得るのは早く、BONSAI FRINDSを作るのも可能かと単純に思ったのである。

                     

                     ところがこれは実に「浅はか」な考えであったことがすぐに分かった。一回目の会合に出席した後の夫は大変なご立腹(!)。「自然に自由に伸びようとする根や枝を、針金を使って人間の思惑通りにするなど自分は賛成できない!」とのたまったのだ。

                     

                     良かれと思った妻の思惑はあえかに消えてしまった。

                     だが私は自分が盆栽の「盆」も分からない内に辞めるのはしゃくにさわるので、時には友人を誘ったりしながら今も会合に出席している。

                     

                     また今冬の訪日の折りには、盆栽の町として有名な埼玉県の土呂市を訪れ、一般に公開している盆栽園を幾つか見て廻ったりもした。

                     

                    土呂駅の正面入り口

                     

                    駅の近くにある「さいたま市大宮盆栽美術館」

                     

                    2月末という季節柄、町中は紅梅が至る所に咲き得も言われぬ香りが漂っていた。

                     

                    土地の人によると、女性の園主はテレビ出演が多いことで知られているとか。「清香園 せいこうえん」の入り口

                     

                     

                    高価な盆栽を闇夜に乗じて盗む人がいるという。防止のために塀の上には有刺鉄線が張り巡らされている盆栽園もある

                     

                     

                    盆栽と言えば確かに針金などを使って、幹や枝を自分好みに曲げたりねじったりするのは不自然だという考えもある。

                     

                    Victoria Bonsai clubでの講習会風景

                     

                    だが体の大きなカナダの会員たちが、小さな植木の型作りに夢中になっているのを見ると、何か微笑ましくも感じるのだ。

                     

                    時には庭に出て自分の盆栽を持ち込んで専門家からアドバイスを受ける

                     

                     いつもながら自分の全く知らなかった世界を知ることに興味津々な私は、新たな世界が開けた感もあり、今は「ご隠居さんの手慰み」等と思っていた自分を反省している。

                     

                     ところで夫はと言えば、最近お気に入りの電気自転車を近くに住む実弟と一緒に買った。本土のバンクーバー市にある自転車屋から取り寄せたのだが、買って間もなくその自転車屋と提携しているビクトリアの同業者からエクスパートの技術屋が来てチェックしてくれた。だがメカに滅法強い夫は、その専門家が驚くほどの知識があるため、ちょっとした不具合は全部自分で調整してしまう。

                     

                    自然の多いビクトリアには打ってつけの趣味であり何よりも良い運動になり、兄弟仲良く遠乗りを楽しんでいる。おまけに休息で木陰に休んでいると、まだ珍しい電気自転車に興味を持つ人々が寄って来るため、そんな人々と「自転車談義」に花を咲かせているようだ。

                     

                    〜*〜*〜*〜*〜*〜

                     

                    閑話休題・・・

                     

                    以下の写真は盆栽クラブがある植物園内に位置する「タカタ・ガーデン」と呼ばれる日本庭園の風景。数多くの盆栽がそこかしこに並んでいる。

                    入り口の一角には日系人の悲話にまつわるモミジが植わっている。

                     

                    真珠湾攻撃で始まった第二次世界大戦後すぐに、西海岸に住む日系人達はカナダ政府によって内陸のロッキー山脈の麓に強制移動させられた。それ以前に日本人が経営していたビクトリア市郊外の「ティーガーデン」と呼ばれた公園に植わっていたモミジが、あるカナダ人の手によって彼の家の庭に移植された。

                     

                    戦後50余年経った1999年に、日系人を中心とした有志の寄付でビクトリア市の北に「タカタガーデン」と呼ばれる日本庭園が造られ後、2008年にそのカナダ人家族が大切に育ててくれたモミジを寄付してくれた。樹齢は100年以上と言われているが、その後も枯れることなく立派に育っている。(↓)

                     

                     

                    庭の各所に見られる盆栽の数々

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    | - | 13:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    知る人ぞ知るInter-Cultural Association (ica)of Greater Victoriaの活動
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                       移民としてビクトリアに最初の一歩を踏んだ人々の中には、ICAと呼ばれるこの組織のお世話になった人は多い。もちろん日本人の中にもいる事だろう。知る人ぞ知るその活動は、BC州で1971年に設立され、多くのNew Comersに各方面の手助けをしている。

                       

                       それぞれの理由で自国を離れ、カナダと言う未知の国で新たな一歩を踏んだ経験のある人たちには覚えがあるだろうが、新開地での生活には誰も希望と同時に一抹の不安を感じるものである。

                       

                       

                       英語クラスも常時開講しており助けになるが、日々の生活の第一歩を踏み出すには多大な勇気を必要とする。だが年月が経ち生活に慣れると共に、移民たちは自信と勇気を得てカナダ社会の一員として同化して行く。

                       

                       興味深いことにこの組織は、移民の人々へ手を差し伸べるに留まらず、いわゆる弱者の立場に立った視点で他の多くの活動も行っている。

                       

                       例えば6月半ばに二日間に渡って開催された「A Conversation about Ageism & The Value of Aging Across Culture」というイベントは、老齢者への社会の差別や加齢に伴う自身の思いなどを語りあおうというものであった。

                       

                       カナダの素晴らしいところは、こうした催し物に必ず背景の異なる他文化の人々を巻き込んで行われることである。

                       

                       ヨーロッパ系の白人が特に多いビクトリアでは、バンクーバーやトロントと違い、国が推進する多文化主義という言葉が浮いてしまう感じさえすることがある。

                       

                       筆者はトロントから当地に国内移住して来た数年前、ここは「白人の最後のフロンティアである」と聞かされて心底納得したのを覚えている。

                       

                       どんな会合に出てもパーティーに行っても、いわゆるvisible minorityである可視的少数派の出席はとても少ないか、皆無であることも稀ではないからだ。

                       

                       そんな中、今回のイベントはAcross Cultureと言う謳い文句や、またこのイベントをどのように仕切るのかに私はとても興味をそそられた。とは言え出席してみれば、やはり95%はヨーロッパ系白人であることに変わりはなかったが・・・。

                       

                       日本でもシニア向けのイベントに参加するのは女性が多いのが常だが、ここも例外ではなかった。

                       

                       夫妻での参加も何組かあった中、外見はお歳を感じさせられるものの、元気で溌剌としたシニア女性が多くを占めていた。

                       

                       日本人と違うのは、他人の思惑などを余り気にしない為、どんな質問にも多数の意見が飛び交うし、デモストレーションでは臆せず積極的に人前に出る。

                       

                       

                       また「シニアに対する社会の偏見に遭遇したことがあるか?」の質問には、司会者が前に置かれた黒板代わりの紙にまとめて書くのももどかしい程の経験談が語られた。

                       

                       先日雇った若いガーデナーが、予想以上に木々の枝を伐採してしまったので、怒ったところ謝りもしないで「心配しなくていいよ、また伸びるから」と言われたとか、全くの他人から「honey」と呼ばれて「馬鹿にされた感じがした」などの話には、似たような経験をした人から大いなる拍手が沸いた。

                       

                       こうした話で打ち解けて来てからはグループセッションに入り、最初は二人一組になって自分の名前の由来やその意味を相手に伝える。例えばよくあるBarbaraMaryDavidと言った名前にも、付けた親の思いや本人の気持ちがありそれぞれの出生が感じられて興味深い。

                       

                       

                       次にグループは数人に拡大されて、日々の生活の中で感じている思いや、過ぎ越し方の思い出などを自由に発表する。言って見ればそれは自己開示と言えるだろうが、決して強制するものではなく、どんなテーマでも語り部の人以外は静かに聞くという姿勢は守らなければならない。

                       

                       発表者のテーマに対して聞き手たちは決して「自分も同じ経験をした」とか、「そういう時にはこうした方が良い」等の意見は言わないことが鉄則。一人の持ち時間は3〜4分程と限られていて、話し終わったら全員が一言「Thank you」と言って話し手を労う。

                       

                       会の終盤には、各グループから選ばれた一人が会場の全員の前で同じ話を披露する。笑いを誘う話、ちょっとしんみりとする話、多くの共感を得る話・・・等々。

                       

                       

                      会の進行をしたファシリテーターのアフリカ系カナダ人女性

                       

                       自分とは違った生き方や考え方を知るのは楽しく、有意義な時間であったし、会の運び方に無駄がない事に感心させられた二日に渡る各二時間余りのイベントであった。

                       

                       

                       

                       

                       

                       

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