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寄稿文 カナダ - 日本

「転び」体験記
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    ヒキガエルの如く

     もう二ヶ月近く前になるが、私は自宅近くにあるショッピングモールのコンクリートの歩道で、“バターン!”とばかりに前のめりに転んだ。

     

     子供の頃は別として、自分の記憶にある限り、成人以後にこんなひどい転び方をしたのは初めてある。

     

     結論から先に言えば「不幸中の幸い」と言う他はなかったのだが、左頬、左肘、左大腿骨をしたたか打ったものの大事には至らなかった。「暗くて見えなかった」などの言い訳は全く通用しない真っ昼間の出来事だった。

     

     あえて言えば「かさばる食料品の入った買物袋を両手に下げていたから」注意が散漫だったとは言えるかも知れない。

     

     しかし左肘と左大腿骨には青あざが出来たものの、実に不思議なことに、左頬は押せば「痛い!」と感じる位でそれらしき形跡は残らなかった。

     

     鈍痛は2週間ほど続いたが、転んだ時のことを思い返すたびに、まるで車にひかれたヒキガエルのような無様な恰好だったに違いないと自嘲した。

     

     

    では事故はどの様に起こったかと言えば、歩道のコンクリートブロックとブロックの間の段差に気付かずつまずいたのだ。

     

    気を付けて見ると街中にはこのギャップのある歩道が山のようにある。

    だが中には写真のように、ペンキで「G=ギャップ」と書いてあるところも見かける

     

     

     だが嬉しいことに、事故の直後に二台の車が停まり「Are you alright?」と手を差し伸べてくれた人たちがいた事だ。恥ずかしいやら痛いやらで、口が十分に廻らないもどかしさを感じながらも丁寧にお礼を言った。

     

     興味深いのは一台の車は男性だったが、すぐさま「ここで転んだのを見たのは貴女が二人目だ。今後のためにもこれは市をsue(告訴)すべきだ」と言う。「Sue、まさか?!」と思ったがただ苦笑いして頷いた。

     

     またもう一台は白人のご夫婦で、夫人の方が「I am a doctor」と言い、手、脚、頸、口を素早く触診し、「動かしてご覧なさい」とあれこれ指示してくれた。

     

     そして「家は何処?」と聞いてくれ、幸い5分もかからない所だったため、「送ってあげるから車に乗って」と言ってくれたのだ。

     

    日本人の妻

     別れ際に「貴女は日本の方?」というので「Yes」と言ったところ「私の息子の妻は日本人で、彼は東京のT大に留学していたので日本語が出来るけど・・・」と言いながら「でも私はサヨナラ位しか言えない」とニッコリ。

     

     私はその奇遇に驚きながらも、この方たちもまた日本人妻を持つ息子がいる夫婦なのか・・・、とよく耳にする組み合わせに感慨を覚えた。

     

     当地に来て驚くことの一つは、ごの夫婦のように「私の息子の妻は日本女性」というのを始め、「私の兄/弟の妻は・・・」「私の従兄の妻は・・・」「私の叔父さんの妻は・・・」「僕の親友の妻は・・・」と言う人の多さである。

     

     きちんと調査をした訳ではないので、全くの私見であることを断っておくが外国語青年招致事業(通称ジェット・プログラム)が1987年(カナダの参加は88年)に始まって以来、白人男性が日本に行くと、数年後の帰国時には日本人の妻を伴ってのケースが急増したと聞く。

     

     また当地の英語学校で教える男性教師が独身の場合も、同じ事象が見られるとも。

     

     とは言え、その逆である外国人女性と日本人男性の組み合わせは、驚くほど少ないのも興味深い。

     

     私が来加した40数年前には絶対に見聞きしなかった社会現象であるため、その推移に時代の流れを感じる。

     

    告訴社会

     転び体験をした後に私は昔読んだ文芸誌に、当時名の知れた作家が書いた一文を思い出した。

     

     それは彼が初めての外国旅行でハワイに行った時の体験記だったのだが、ある夕方友人と某レストランで待ち合わせをしてため出かけた。だがタクシーを降りた途端に、入口に少々溜まっていた水で足を滑らせてまったのだ。

     

     

     大事にはならなかったので本人はいささか照れながら起き上がったところ、レストランの中から慌てふためいてオーナーが飛び出してきた。「大丈夫か?怪我はないか?立つことが出来るか?救急車を呼ぼうか?」とそれは大変な心配のしよう。

     

     「何とハワイの人は親切なのだろう!」と驚き友人に話したところ「違いますよ。ここはハワイと言えどもアメリカで、この国は何かというとすぐにSueするから、先手を打っているのですよ」と言われ「まことに驚いた」と言うのである。

     

     さて私はと言えば、sueするなどの時間と手間は考えるだけでも面倒だったが、少なくとも地域のCity Councillorに「コンクリートブロックのギャップを何とかしてくれないか」とのメールを送ろうと思っていた。

     

     それには証拠の写真が必要と思い同じ場所に足を運んだのだが、どうだろう!その一帯は今大掛かりな下水と道路工事をしていて(転んだのはそれが原因ではない)、私がこけた歩道のコンクリートブロックは、2,3日の内にすっかり新しい物と入れ替わっていたのだ。

     

     「ああ、これで犠牲者が再度出ないな・・・」と思い、何やらホッとして胸を撫でおろしたのは言うまでもない。

     

     

     

     

     

     

     

     

    | - | 04:47 | comments(0) | - | - | - |
    配偶者の呼び方
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      朝日新聞のメルマガ

       

       最近期せずして日本からのメルマガに、「配偶者の呼び方」というのが特集されていた。

       

        一つは朝日新聞で、歌人与謝野晶子の例を挙げ、1915年(大正4年)に夫である与謝野鉄幹が衆議院議員選に立候補した時の記事で、大阪朝日新聞の取材に対して晶子は鉄幹を「宅」と呼んだと書かれている。

       

       「宅(たく)が立候補を決心したのは〜」とか「宅でも私でも政治には元より多少興味を持ってゐまして〜」と言ったと言うのだ。

       

       もちろん『宅』とは夫を家と重ねた古風な呼び方であるため、「自立を志した晶子ほどの人物のセリフとしては意外だ」と解説されている。

       

       時代が時代であったとはいえ、確かに彼女が夫に対しこんな呼び方をしていたことは驚きである。

       

       何故なら、彼女と鉄幹はある歌会で知り合ったのがきっかけで、最初は不倫の関係であったのだ。

       

        師としての尊敬が男女の関係に進み、鉄幹が創立した機関紙『明星』に晶子が短歌を次々に発表したり、また女性の官能を高らかに謳った『みだれ髪』を刊行するなど、当時としてはずば抜けて飛んでいる女であった。

       

       

       また鉄幹と結婚してからは12人もの子供を産みながらも、女流詩人として大活躍した。しかし彼女のその人気に反比例して鉄幹の作品は売れなくなり、家計を切り盛りしたのはもっぱら晶子で、孤軍奮闘しながら一家の生活を支えたのである。

       

       

       続けて同メルマガは、「言葉は時代や社会状況によって変わってゆくものである」とし、「バブル景気に沸いた頃は、記事本文では『主婦』『妻』であるのに、見出しでは『奥さん』と書き、分かりやすさや親しみやすさを狙った表現が用いられている。既婚女性に対する画一的なイメージが伺えるが、今はこうした見出しは殆ど見られない」と解説している。

       

       そして17年改正の社内における記事用語のマニュアルとしては、「夫、つれあり、パートナー」などを例示しているとか。

       

      HUFFPOSTのメルマガ

       

       もう一つ夫の呼び方に言及したメルマガは、常に先端的な社会現象に焦点をあてる媒体のHUFFPOSTで、「『主人』という言葉を使いたくない。けど、会話相手の配偶者をどう呼べば・・・『呼称』に右往左往した私の記録」という記事であった。

       

       これを書いた女性記者は、インタビューの相手が既婚者の場合、その「夫」にあたる人をどの様に呼んだらいいか迷い、読者からのアンケートを募集しているのである。

       

       彼女は色々と思考錯誤し、自分の気持ちにピッタリの呼び方を考えあぐねた結果「お連れ合い」を使っているそうだ。

       しかしまれに一瞬相手に意味が通じず、「会話の流れが途切れることがある」と言う。そこでHUFFPOSTの読者に「皆さんのお知恵をお寄せいただきたい」と。

       

       筆者にはこんな状況が手に取るように分かるのである。「ご主人」という言い方は極力避けたい私も「お連れ合い」を使うと、相手によってはキョトンとされてしまうことがあるのだ。

       

       また名前を知っていれば、「博さん」「和夫さん」と言った具合に言うのも可能だが、これも英語圏と違ってお連れ合いの男性名を使う習慣が、まだしっくりと日本社会に溶け込んではいないのを感じる。

       

       日本語は細やかで相手の気持ちを思いやる言い方が多いのは嬉しい。だが一方話し手との距離、年齢、立ち位置の違いなどが微妙に絡み、言葉使いに神経を使わなければならないこともまた多いのである。

       

      さて自分の配偶者を呼ぶ時は?

       

       仕事を持ち一見自立しているかに見える女性の口から「主人が・・・」との言葉が聞かれる時は「ふ〜ん?!」と思うが、一般的にはまだこれが主流であるようだ。

       

       もちろんこれは年代によって違いがあるのも確かで、昭和生まれの人にはやはりこの呼び方が多いように見受ける。だがそれでは平成生まれは皆「夫」かというとそれもないようで、育った環境なども左右するのだろうかと思う。

       

       ああ、「(my)wife」「(my)husband」で済む英語の何と簡単なことか!

       

       

       

       

       

       

       

       

      | - | 06:03 | comments(0) | - | - | - |
      300件目のLittle Free Library
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        手造りの極致を行く庭

         

         その家は拙宅から歩いて10分くらいのごく普通の住宅街にある。

         

          数年前にビクトリア市内のコンドに移ってすぐに、廻りを散策した折り「なんと賑やかな家だろう!」と驚いたのを鮮明に覚えている。家の作りは、何処にでも見かける薄いグレーのペイントが塗られたフレームハウスで、十字路の角に建っている。

         

         その前・横・後ろの庭には、実に多種多様な大小さまざまの花鉢が置かれており、その一つ一つに季節ごとの花がチマチマと植わっている。

         

         だが賑やかなのは花ばかりではない。まるでおとぎの国に迷い込んだかに見える、白雪姫、赤ずきん、7人の小人、シンデレラ姫・・・等などのミニチュアのキャラクターが、これまた庭のあちらこちらに所狭ましと置かれているのだ。呆れると言うよりは、ここ迄来たらもう感心する以外はない。

         

        ミニチュアのキャラクターが至る所に・・・

         

          好奇心満々の私は、通りから丸見えの中庭にも目をやる。さあここにも、レンガを積み上げて造ったピサやバーベキューが焼けるカマドがあり、週末には孫たちのはしゃぐ声が聞こえる。夜が更けても問題はない。自動的に点火する薄紫のネオンが辺り一面を明かるく照らすからだ。

         

         最初に見た時から、家主は時間のタップリあるシニアであろうと予測したが、ある日働いているご夫婦を垣間見て、感が当たったことを確信。人の財布ながら、軍資金もかなりをつぎ込んでいる事が分かる。

         

         リタイアして時間が出来ると、ミノ虫よろしく巣籠して殻の中に入ってしまい「コクーン症候群」に陥る人がいる話はよく耳にする。だがこうした庭造りなどの趣味は健康にも良い事は言を俟たない。

         

        タップリの時間

         

         ビクトリアには、市内の色々な場所にアート的装飾を施すことを後押ししているGreater Victoria Placemaking Networkと言う組織がある。

         

         担当者の話によると、この数か月は外出がままならないために、有り余る時間を利用して自宅の前にLittle Free Libraryを作る人が急増し、その数は何と20個にものぼるとか。

         

         これは自分が読み終えた本を自宅の前に造った小さな図書館に入れて置き、誰でもが自由に出し入れが出来るもの。ただし『一冊持って行ったら、手持ちの本を一冊持って来ること』というのが規則である。

         

         家族構成によって、児童向けの本や絵本が多かったり、スリラー小説、歴史的読みもの、伝記もの等の傾向があったり、種々雑多であったり・・・、と面白い。

         

         私はきっと満艦飾の家もこの期を見逃すはずはないと思い、ある日そばを通ったら案の定!写真のようなのがお目見えしていたのである。

         よ〜くご覧あれ!そんじょそこらに見られるものとは一味も二味も違うことが分かるだろうか。

         

        塀の向こうには母屋から離れたお客用の別棟が建っている

         

         ライブラリー自体はそれ程大きくないのだが、両脇にはがっちりとした木材で造ったベンチが「ハの字型」に置かれている。

         

          本を手に取った人が、ひとまず腰を下ろしてページをめくることが出来るようにとの心憎い配慮がされているのだ。また近くにはバスストップがあるため、シニアでも待ち時間が苦にならず、座って待つことが出来たりなど、造り手の温かみが感じられて嬉しい。

         

         更には、これが市内の300個目のLittle Free Libraryとのことで、ローカル紙のTimes Colonistを始め、小さなコミュニテイー紙もこぞって取材に訪れたために、そこここで話題になっている。

         

        7月1日の建国記念日「カナダデー」の直前にはカエデの国旗が10枚飾られていた

         

         努力の甲斐があってさぞや嬉しい事であろうと、過日家主のJim Pungenteさんに会った時「おめでとう!」を言うと、破顔一笑。「こういう時期だから町を明るくしたかったんだ」と、賑やかな外観とは裏腹に謙虚に語っていた。

         

        〜*〜*〜

         

        西海岸はカナダの他の地域と比べ気候が温暖なせいだろうか、ユニークで開放的(?)

        なデコレーションを施す家もある

         

        以下は目についた幾つかの写真

         

        前庭に素晴らしい花壇を造る家は多いのだが、中にはこんなに古い人形や置物を

        幾つもぶら下げている家もあり思わず笑いが込み上げる

         

         

        海岸から拾った流木を使って動物のフィギュア―を造ったもの

         

         

         

         

         

         

         

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        冷酷な時の流れ
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          ビクトリアの昨今

           

           COVID-19の話題はもう止めようと思いつつ、ついそちらに話題が行ってしまう。

           

           国の中央周辺から少し遅れて、西海岸のビクトリアの人々の間に本当の緊張感が走ってからヵ月。各方面での日常生活が大幅に規制され、嫌が上にも「コロナ」と言う見えない魔物に怯える日々が続く。

           

           そして日々変わる国や州からの規制の目まぐるしさ。

           

           「負けるものか!」とは思っても、感染者や、死亡者数が日々数字で示されると、何処にも持って行きようのない「怒り」に続く「萎え」を繰り返し感じる。だが人は「慣れ」と言う順応性を持っているため、不自由であることが段々と日常化され、それが毎日の生活の支流を占めるようになっている。

           

           「今まで人間は余りにも贅沢をし過ぎ傲慢であったから、これは神からの見せしめだ」と分かったような声も聞かれる。そんな意見に賛成かどうかは別として、一番辛いのは気心の知れた人々と気軽に会えない事だ。

           

           だが第二波にびくびくしながらも、最近は規制が多少緩んできた。先日親しい友人と午後の暖かい日差しを浴びながら、レストランのテラスでワイングラスを傾けた時の解放感は「Splendid!」の一言に尽きた。

           

           お互いにどんな暮らしをしているかを話し乍ら、コロナに対するカナダ人的、日本人的な考え方の相違などを大笑いしながら指摘し合い、忌憚なく思いを語った。実に胸がすく一時であった。

           

          心に残る名画

           

           人間は一人で体験できることに限りがある事を思えば、自分とは異なった人々と交わり、人生体験を聞き、歓喜し、共鳴し、同情し、激怒し・・・そこから自分の人生の幅を広げていけることが私は何よりも好きである。

           

           読書からも同じような知識は得られるが、他にも映画鑑賞によって知らない世界に足を踏み入れることが出来るのは実にワクワクとするものだ。

           

           学生時代から私は実に多くの映画を観てきたが、それは取りもなおさず、スクリーンに映し出される人々の生きざまに興味が尽きないからだ。

           

           以前とは異なった時間を過ごす昨今。昔見た幾つかの作品を思い出し、再見する機会を持つことを心掛けている。

           

           スペクタクルなアメリカ映画もさることながら、中でも興味をそそられるのは、ヨーロッパで制作された作品の数々だ。

           

           特にイタリア映画は、人情味が溢れ人生の機微を見事に表現した忘れられない秀作が多い。大道芸人の悲哀を描いた『道』、戦争によって引き裂かれた夫婦愛の物語『ひまわり』、父親と息子の悲しい魂の触れあいを描いた『メリーゴーランド』等など。

           

            

           

           

           数えたら切りがないものの、私の心に一番印象深く残っているのは、第二次世界大戦後のイタリアを舞台にした『ブーベの恋人』である。終戦の混乱期には、まだ人生経験の浅い平凡で未熟だった一人の女性が、死亡したパルチザンの兄の仲間だった男性(ブーベ)を愛するようになってから、女性として成長して行く社会派メロドラマである。

           

           これは1964年の作品で、当時のイタリアの家父長制度が日本と似通っていることに驚いたのを覚えている。

           

             

           

           この主役を演じたのは、アメリカ映画史に永遠に残る名作ミュージカル『ウエストサイド・ストーリー』で、素晴らしいダンスと演技で鮮烈な印象を与えたジョージ・チャキリスである。

           

          プエルトリコの若者ベルナルド役

           

          ベルナルドの恋人役 リタ・モレノ

           

          小泉八雲役のジョージ・チャキリス

           

           その彼が50歳になった1984年に、NHK制作の『日本の面影』と題する小泉八雲役に挑戦したドラマを、今回初めて見る機会を得た。

           

           『ウエストサイド・ストーリー』ではプエルトリコ人ベルナルド役で癖のある英語を、またブーベ役ではイタリア人男性を演じたが、一転して八雲役では特訓を受けて、まったく流暢とは言い難いものの、日本語を話していることには驚きを禁じ得なかった。

           

          八雲の妻、小泉せつ役の檀ふみと

           

           俳優であれば当たり前かとは思うが、彼のひたむきな挑戦には賛辞を送りたい。よく知られるように、八雲は子供の頃の事故で左目に障害を持つ身であったため、チャキリスも片目での演技をこなしている。

           

          片目を閉じて八雲役を演じる

           

           あの鮮烈な印象をぬぐうことが出来ないベルナルド役、片目の八雲役。どちらも同じジョージ・チャキリスではあるが、円熟したその変貌振りには深い感慨を覚えた。

           

           

           

           しかし彼を始め『ウエストサイド・ストーリー』で恋人役を演じたリタ・モレノ、抗争のギャング役ラス・タンブリンも今は皆85歳。

           

          ラス・タンブリン(右)

           

           マリア役のナタリー・ウッドは水の事故で不慮の死をとげ、悲恋の相手役リチャード・ベイマ―は82歳。

          リチャード・ベイマーとナタリー・ウッド

           

           「当時美男美女で売り出した俳優たちの老いた姿を見るのが好き」なんてちょっとひねくれた事を言う友人は「何だあれほど人気があっても、年取ると我々と同じか!?」と思うのがいいそうだ。

           

           これを聞いた時はおかしくて大笑いしたが、私は出来る事なら見たくない。人気絶頂の華やかだった昔日の記憶を消したくないからで、ネットで「今」の検索はしたくない。

           

           世の中がどうあろうとも、抗うことの出来ない時の流れは非情に過ぎて行く。

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

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          タイムスリップ-「COVID-19」の日々
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            先ずは下の6月5日分を読んで頂き、その後、真下の追記6月15日をお読み頂きたい

             

            追記:6月15日

             

            「あと少々で整理が終わる」などと記したが、それはまったく甘い考えだっと気付いている。今日6月15日(月)でもまだ作業が続いており、いささか疲労気味である。

             

             とは言え途中で終わらせる積りはないのだが、微に入り細に入り書かれている「過去」は、私の一代記であることに間違いない。

             

             しかしこうして読み続けて見てつくずく思うのは、「人の記憶のあいまいさ」である。

             

             頭の中で「記憶している」と思っていることが、実は「自分の都合の良いこと」のみを覚えていて、実際にはそれに付随する諸々のことは忘れていることが多いのだ・・・と思い知らされる。

             

             そしてその「記憶」は、何度も繰り返し思い出すことで「真実」になって行き、時には後から起こる関連の経験が加味されて「本当の真実」が歪められていく事もある。

             

             個人の体験でさえことほど左様なら、現在のように情報などが行きかうこと等なかった昔の歴史は、よく言われている事ではあるが、実際には何処までが真実かは分からないものである。

             

             

             

            6月5日 記

             

              非常に私事ながら私は人から「整理魔の敬子さん」と称されることがある。とにかく家の中が整理整頓されていないと、他に何も手につかないのである。

             

             とは言えそれは、自分の設けた基準に沿ってのことであるから、他人から見れば「エッ、この程度で?!」と揶揄さるかもしれないし、もっとすごい片付け魔の人もいる事だろう。

             

             だがこんな性格を褒めて下さる方は「いいじゃない、いつもきちんとしていて」とおっしゃるが、時に自分で自分の首を絞めてしまいかねず、息苦しさを覚える事があるのは困ったものである。

             

             でもこんな性格は、幼少期からのものと兄弟たちは言う。幼い頃の性格が歳を重ねても変わらない例えに『三つ子の魂百までも』というのがある。

             

             それをまるで地で行っているような結果を見るのが、オフィスとして使っている自分の部屋の作り付けの戸棚である。そこに納まっているのは42冊の日記帳と30冊の重い分厚いアルバム(学校の卒業記念などの数冊は別)である。

             

             COVID-19のために、3月半ばから否応なしに家に居ることを課せられている日々に、私は家中を掃除し私物の有りかの詳細を家人に伝えた。

             

             今は若い人の多くもウィルスに感染することが分かっているが、当初は「主にシニアが疾患する」と言われていた。まさにその部類に属する自分が、もし緊急入院して最悪のことになっても、残された家族が私の私的な所有物の処理に困らないようにとの配慮からだった。

             

             私は物書きという仕事柄、取材に使った大量のノート類、元原稿のコピー、新聞・雑誌・パンフレットなどの切り抜き、数々の写真、インタビューのテープなどが山のようにある。年初頭にはいつもかなり整理するものの、今回はタップリの時間を使いそれ以上に断捨離を試みたのだ。

             

             だが最後に手を付けなければならない『砦』が、この大量の日記とアルバムと相成ったのである。さて何処から始めようかと思案の末、兎に角アルバムも日記も形やサイズに関係なく、表紙に書いてある番号順に並べ直し、時代を追って過去にさかのぼる事にした。

             

             物思う心をノートに記すようになったのは、17歳(高二)の春。良くある話でチョッピリ陳腐だが、同級生に片恋慕して何編もの詩をノートに書き出したのが始まりで、その後乙女心の発露として日記を日々記すことになったのだ。

             

             何ともやるせないほど純粋で、可愛らしく、微笑ましくもあるが、思い返せばそれはすでに数十年も前のこと。以後は長い人生の合間にonoffで書き続けた人生記録が2000年前後まで続きこの42冊に収められているのだ。それ以後は、取材ノートにまとめたり、一年事のagenda bookに記されているが、これは数に入っていない。

             

             

             一方分厚いアルバムも幼少期から時代を追ってまとめてあり、まるで「これでもか!」と言わんばかり。

             

             ちょっとした添え書きや旅先の地図、絵葉書、心に残る年賀状や友人からの手紙などと共に、実に整然とページからページに生きた証が貼られているのである。

             

             

             人生に悩み、迷い、はたまた希望に胸膨らませて成長して行った日々。中には思いを寄せてくれた男性たちからの恋文や詩編集も幾つか残っているが、その昔日の日々は当然ながらもう戻っては来ない。

             

             もちろん現在住むこのカナダ・BC州・ビクトリア市を、夫と共に終焉の地と定め移り住む迄には、独り身の時も家族を持ってからも何度か引っ越しをしている。だがその度にヤドカリのようにこれ等の荷物も一緒に運んでいた。

             

             しかし現況のように「不要不急以外の外出を控えるように」などの規制の日々は過去に一度もなかったことで、忙しい日常を送ることに終始して来た。その為に過ぎ越し方を日記とアルバムと共に紐解く時間などなく、今に至ったのである。

             

             あと少々で整理が終わる。COVID-19の終焉が早からんことを心から祈りながらも、今回じっくりと時間を掛けて我が人生を振り返り、時空を越えてタイムスリップする機会が与えられたことを心から感謝している。

             

             そしてしみじみと思うのは、自分なりに精一杯生きて来たことに一切の悔いはなく、思い残すことがない人生を精一杯生きてきたと自負出来ることに満足している。

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

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            COVID-19 とVictoria市のホームレス問題
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              街中にTent City 再現

               

               コロナ、コロナで夜が明けて、コロナ、コロナで日が暮れる。そんな日々が続くこの4か月ほど。人影の消えた世界の町々の写真を見るのは、もう全く珍しいことではなくなったが、ビクトリアも例外ではない。

               

               そんな静まり返ったダウンタウンの、Vancouver St.Quadra St.の中間のPandora Ave.にあるホームレス互助機関「Our Place」前に、4月初めごろから所狭しと張られたテントが出現した。

               

              ホームレス互助機関「Our Place」の正面玄関 (通常時)

               

               すでに歩道の脇にはポータブルトイレも設置されている。テントは他にもダウンタウンから少し離れたTopaz Park, 海沿いに広がった広大なBeacon Hill Parkにも多々見られる。

               

              ダウンタウンのど真ん中にある「Our Place」前に張られたホームレスのテント

               

              不衛生な環境での生活ため、各種の害虫がはびこる。ペストコントロール会社が視まわりをする

               

               この現象は、通常なら当互助機関や市内に数か所あるホームレス用の宿泊所に泊まる人々が、「2m間隔規制」によってはみ出され、テント生活を余儀なくされているためである。

               

              海岸の流木を集めて造られた海岸沿いの小屋

               

                各テントの中に何人住んでいるかは定かでないが、海岸にも流木を使っての小屋が建てられており、これから増々増えるであろうことは疑う余地はない。仲間内のクラスター問題も大きな心配事だ。

               

               現在彼等が気を揉むことは、住居の確保と同時に、毎日の食事にありつけるかである。「Our Place」で働く800人ものボランティアが、自宅待機になっているため、日に1400食も用意することが可能かどうか。その影響が自分たちに及ばないかが心配なのだ。

               

                しかし極めて少数のレギュラーのスタッフのみで、いまだに食事を提供していると言う。その苦労は並大抵のものではないだろう。

               

               覚えている人も多いだろうが、2016年にダウンタウンのBC州裁判所の裏庭に、ホームレスのTent Cityが出来て大きな問題になった。

               

              BC州裁判所(後ろの建物)の裏地に張られたテント。問題が解決した頃は、この5倍ほどのテントが張られていた

               

               ビクトリア市は試行錯誤の末、大方を低賃金のアパートや古い建物を改造して入居させた。もちろんそれで問題が解決したわけではなかったが、今その跡地はきれいに整備され遊園地に変身した。

               

              現在は整備され遊園地に変身した

               

               私は当時足繁くここに通い、多くの人にインタビューを試みた。

               

               彼らの言い分をすべて信じることは出来なかったのだが、明らかな精神疾患者、薬物の過量投与者、アル中患者、家庭内暴力からの逃避者、学習障害者、失業者等など、それぞれの理由を抱えていることに胸が潰れる思いを何度も味わった。

               

               もちろん彼等の住居を確保することは最重要であるものの、その後のケアが更に大切なことは言を待たないとしみじみ感じたものだ。それは疾患からの快復に加え、自身が生きることに誇りと自信を持つこと。

               

               自分の手で収入を得る道を探り、社会復帰することの大切さを学ぶこと。それなくしてホームレスの問題は絶対に解決をみない。

               

               だが言うは易しで、その道のりが遠い事は誰でも知っている。

               

               特に薬物に一度手を染めると更生に困難を極めることは、度々登場する有名人のニュースでも知られている。

               

               

              イタリアのドラッグ更生施設

                  「San Patrignanohttps://www.sanpatrignano.com/

               

                ブーツ型の国イタリアの、中央に位置するフィレンツェ市の北方に、40年の歴史を持つ非営利団体の中毒者更生施設San Patrignanoがある。

               

                主にはヘビードラグユーザーの若者たちを対象にしているが、アルコール中毒、摂食障害、ギャンブル依存症などの問題をかかえている人たちにも援助の手を差し伸べており、世界で一番大きなリハビリ施設の一つとか。常時千数百人程度を収容していると言う。

               

               最近私の身近な人が、当地を訪れ施設を見学したためその印象を聞くことが出来た。

               

               運営は、国連薬物犯罪事務所や欧州治療共同連合会等など、多くの国際組織の協力によって実現可能になっているため、入所費用は皆無と言う。本人は勿論のこと、家族に対するサポートもあり、行き届いた細かいサービスが受けられる。

               

               立ち直りのためのユニークなプログラムに参加しながら、人間として自立し社会復帰を目指すのである。

               

               12の例を挙げれば、美味しいパンを焼く職人を育成したり、施設の広大な敷地に500頭も飼っている牛からチーズを造る職人を育て、それ等が高い評判を得ているため、一般市場への販売ルートの確保もしている。

               

               またセンスがあり手先の器用な人には、将来ファッション界で働けるような道が開けるための手助けもする。

               

               そして何よりも大切なこと‐若者たちに将来の希望を持たせ、生きる道を開かせるのである。

               

               もちろん立ち直りには個人差があるものの、施設を離れることが出来るようになるには、最低3年ほどの月日を要するとか。

               

                家族や周囲の人々との正常な関係が保てるようになることが一番の目的であるが、ドラッグ常習者の更生率は72%と言われており、厳しい現実がある事も確かなようだ。

               

               人としての尊厳を回復することが出来るこんな更生施設が、もしカナダにもあったらどんなに素晴らしいか。数々のテントを見ながらそう思わずにはいられない。 

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

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              映画『主戦場』を観て
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                 この映画の感想に関しては、すでに原稿を一本バンクーバー新報の自分のコラムに書いているのだが、更なる思いを付け加えたく再度同じトピックをまとめたいと思う。


                 重複する部分がある事をお許し頂きたい。2 月上旬に開かれたVictoria FilmFestival(VFF)は毎冬この時期に開催される。余談だが、数年前にトロントから当地に国内移住した時、私はここにもFilmFestival がある事に小躍りした。

                 

                 知る人も多いことだろうが、Toronto InternationalFilm Festival (TIFF)は市を挙げて大々的に開催され大きな収入源になっている。TIFF が世界の名立たる映画祭と違うのは、コンペティションがないためで、ハリウッドや欧州、または日本からの参加者たちは、とてもリラックスしてフェスティバル自体を楽しむ雰囲気がある。

                 

                 お陰で私も世界各地の映画祭で数多くの賞を取っている是枝裕和監督や、ユニークな作品の多い黒沢清監督等などにお目に掛かった。

                 

                 初めて体験するVFF では、詳細を知らなかったゆえに二つの映画祭を同列に考えてしまい規模の小ささに驚いたのだ。とは言え2 月の寒い夜にわざわざ映画を観に出かける人がいる事や、今年は話題作の『主戦場』が上映されるなど、それなりにインパクトをもたらしている事を知った。
                 

                 日韓に横たわる禍根
                 

                 この作品は戦後74 年経った現在も、日韓の間で決して癒えることのない禍根を残している日本軍によって組織れた戦時下の慰安婦問題についてまとめたものである。
                 

                 監督は米国フロリダ生れ(1983 年生)の日系アメリカ人二世ミキ・デザキ氏。私がこの作品に何よりも興味を持ったのは彼の出自であった。日本人でも韓国人でもない30代半ばの日系二世の男性が、この問題をどの様にとらえキュメンタリーにしたかを知りたかったのだ。
                 

                 監督は日米韓の国々から政治家、ジャーナリスト、弁護士、歴史学者、憲法学者、教育学者等など27名もの人物にインタビューを試み、彼等の考え方と言い分を引き出している。これ程の人数を登場させることが出来たのは、監督自身も言うように、彼がどちらの国にも属さない人であったからだろう。
                 

                 ドキュメンタリーというのは、どの立場から制作しようと必ず賛否両論が聞かれるもの。この作品も例外ではなく、まして慰安婦問題は単に二国間の人道問題として片付けることは出来ない歴史、社会、政治、経済、民族、文化的問題が背後に複雑に絡んでいる。

                 

                 にもかかわらず監督は、戦争中に米国が日系人を強制収容所に送り、後に補償を行った問題と何処かに共通点を見出したいとの意図が見える。その視点は単純過ぎると言わざるを得ない。


                女性に対する尊厳の問題
                 

                 現在登録されている韓国の元慰安婦で生存しているのは21 人とか。もちろんその女性たちはすべて高齢者であろう。となれば彼女たちが日本政府に対する運動の先頭に立っていることはもはやあり得ない。

                 画像に写る黄色いシャツを着て活動を行っている(主に)女性アクティビストたちは、祖母が慰安婦であったか、或いは運動に共鳴する若い世代と想像する。
                 

                 インタビューされた人の中には、こうした女性活動家たちを指して「皆余り美しくない女性たちで、こうした運動をすることで自分の存在価値を見出している」といった趣旨の事を言う人さえ登場させている。
                 

                 実に驚くコメントだが、それが事実か否かは別として彼女たちは最後の生存者が亡くなるまで活動を続行するだろう。加えて外国(特に米加)では、経済的政治的に力のある華僑の人々と組み、問題の根本とは違った方向に動いていると言われている。
                 

                 その行動の一つが次々に設置される慰安婦像である。加州グレンデール市では公共の場に立像したため、大阪は姉妹都市関係に終止符を打った。またトロントでは5 年前に市から許可を必要としない私有地の韓国人会館の表玄関に建立され大々的な除幕式を行った。

                 

                 賛同するカナダの政治家たち数人も出席したが、「性奴隷」「20 万人の慰安婦」「強制連行」などの言葉が先行するだけで彼等がどの程度詳細を知るか疑問視する向きは多い。
                 

                 ベトナム戦争では米国に加担した韓国が、自国の女性たちを戦場の兵士のために送っていたことがフィルムの中でも語られている。私は日本軍による慰安婦問題を否定する気は一切ないし、戦時中は米国、ドイツ、フランスなどでも同様なことが行われたなどと過去の歴史を弁明する気など毛頭ない。
                 

                 戦争は人間を狂気に落とし入れる。どの例を見ても「女性に対する尊厳の問題」であることが共通している。ならば建てられた慰安婦像の横に「戦争の狂気によって女性が汚辱されることを今後一切なくしていこう」と称する別のプラグを掲げるのはどうだろうか。

                 

                 「#Me Too」のように女性の尊厳を守るために世界の女性が一致団結することは不可能だろうか。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

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                英王室のご立派な決断
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                   ヒラリー氏

                   

                   

                   おやおや、現代版シンデレラ姫のお話しは「ここで極まれりか・・・!?」そう思った人は世界中にワンサといるに違いない。

                   

                   今更詳細を書くのは止めよう。

                   

                   ただ元王族の一人だったハリー王子と、色々と曰くあるアメリカ女性メーガン妃が、英国王室での地位を無くしたことで、カナダ・BC州のビクトリア市(以下V市)郊外に住むことが確実になりつつある。その町に住む者として、感じることを書いておきたいと思う。(称号は1/20以前のもの)

                   

                   まずこのニュースは、ヘンリー王子一家が恒例のノーフォーク州にある王室の別邸「サンドリガム・ハウス」で、エリザベス女王とクリスマス休暇を過ごさなかったこと。代わりにV市郊外の知人の屋敷に来ていたそうだ・・・、と言うニュースが人々の口に上ったことから始まった。もちろん地元紙のTimes Colonistがそれを報じたからだ。

                   

                   英国色の強い白人中心の小さな町V市。ニュースのスポットが当たることなど滅多にない静かな町V市。そんな場所で世界屈指のセレブ一家がクリスマス休暇を過ごしたとなれば、それはもう一大事件!ある事ない事を人々が囁やくのは無理ないと言うものだ。

                   

                   夫妻がカナダを選んだのは、イギリス連邦の加盟国であり英連邦王国の一つであるからに他ならない。加えて昔メーガン妃がカナダに住んだことがあり、良い思い出があるからと言うのも一つの理由だったとか。

                   

                   しかし日が経つごとに増える情報に伴い、常識あるカナダ人たちは「もし本当にカナダに住むことになったら、警備費はだれが?」と言う疑問だった。

                   

                   

                   想像を絶するほどの費用は、RCMP(国家警察)が賄うことになると予測するのが常識と言うもの。カナダは立場上「来るな」とは言えない。さりとて彼らが居を構えても、世界にV市の名前が知られる以外に得になることは殆どないと言っても過言ではない。

                   

                   まあ例えば屋敷を購入するのなら不動産屋は儲かるだろう。

                   

                   すでに大手の不動産会社社長が、ニュース流出直後のインタビューに笑顔で答えていた。また屋敷の維持のためメイド、料理人、庭師等などが雇われる可能性があるかもしれない。

                   

                   となれば当地の人々の雇用促進に多少は貢献するかもしれない。また将来子供が私立校(当然!)に通うようになれば、学校は知名度が上がり関係者はホクホクかもしれない。だが現時点ではすべて「かもしれない」の域を出ない話である。

                   

                   微細に渡り報道される王室関連の収支が想像を絶する額のため、一般市民には「夢物語」を聞かされているようで現実味が薄い。そんな思いを反映してか、今月初旬の世論調査では73%が夫妻の移住に反対との結果が出た。

                   

                   だがよく考えて見れば、メーガン妃は多少ハリウッドで名の知れた女優ではあったにしても、結婚後「お妃様/サセックス公爵夫人」と呼ばれるようになったにしても、こんな高額のお金が動く生活は結婚前迄はやはり「夢物語」であった筈だ。

                   

                   それがどうだろう。王子様と結ばれ子供を出産し王室内での地位を確固たるものにしたことで、本来の自我の強いアメリカ女性に逆戻りしたのではあるまいか。

                   

                   幸運にも美貌であるとは言え、強烈な人種偏見のあるアメリカで、黒人とのハーフである出自には苦い思いもあったろうし、白人の父親との確執、すんなりと別れたとは思えない離婚歴もある。

                   

                   となれば人生の酸いも甘いも知っている38歳の筈で、自分で勝ち取った人生には絶対なる自信を持っている事は疑う余地がない。

                   

                   大学時代のスイートハートであったウィリアム王子と結ばれた世の荒波知らずの義姉キャサリーン妃とは大違いで、堅苦しい王室に馴染めないのはよく分かる。

                   

                   一方お相手はと見れば、生まれた時から王子様として温室の中で育った3歳年下の世間知らずのお坊ちゃま。ただ一つ彼が背負っている拭いきれない悲しみは、わずか13歳であのような形で母親を亡くしたことだ。

                   

                   これが理由でパパラッチを憎悪し、出来うる限りそれから逃れようとする気持ちには同情する。しかしカナダに移住したからと言って、よもや彼等から逃れられるなどの甘い考えを持っていないことを切望する。

                   

                  クリスマス休暇でカナダのビクトリア市を訪れた時の写真

                   

                  今後状況は刻々と変わるだろうが、1/20エリザベス女王の声明は:

                   ―娑聞澆慮務を退く

                   殿下などの称号を失う

                   8費支給は受けない

                   ➃新居として改造したお城の改修費を返却する。

                   

                   つまるところ夫妻が望む自由な生活をしながら王室の仕事も時には係わると言う「いいとこ取り」は許さないと言う厳しいお達し。

                   

                   色々取り沙汰されても、要はハリー王子一家が満足の行く生き方を選べることが一番大事。クリスマス直後のローカル紙の論説を借りれば「When Royals visit(今はlivehere, Let them be, let them be」。

                  まさにその通りであろう。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

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                  ビクトリア大学のブッククラブ
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                     ヒラリー氏

                     

                    コクーン症候群

                     

                     去年の春行われた東京大学の入学式で「社会には、あからさまな性差別が横行している。東大もその一つ」と喝破したのに続いて、大学で学ぶ価値は「すでにある知を身に着けることではなく、これまで誰も見た事のない知を生み出すための知を身に着けることだ」と祝辞を述べた女性学のパイオニアで社会学者の上野千鶴子東大名誉教授を「知らない」と答える人は少ないだろう。

                     

                     

                     著書は数えきれないほどあるが、2010年に著した『ひとりの午後』(NHK出版)と題した本の後書きには「コラボが好きである。それも未知な領域の人と組んで、自分でも知らなった未知の自分が引き出される経験を味わうのが楽しい」と。

                     

                     そんな気持ちを持っているからか、一介の物書きに過ぎないカナダ在住の私が著した『カナダのセクシュアル・マイノリティ―たち』という本を上梓した折りに、当時東大大学院のゼミで教えておられた氏に招かれて、学生たちに拙著を紹介させてもらった。

                     

                     

                     引き続きその夏は、「山梨のコテージで缶詰になって仕事をするから」と氏がおっしゃるので、東大の真横のご自宅に一ヶ月ほど泊めて頂いた。

                     

                     こんなことを長々と書くのは、上記著書の後書きに強く共感するからだ。一般人の場合は、一人の人間が一生に知り得る人の数などたかが知れている。特に歳を重ねていくと、知人、友人の範囲が徐々に狭くなって行く。それを人呼んでコクーン(ミノ虫)症候群という。つまり、自分の殻に閉じこもって新たな出会いを求めないことを言うのだ。

                     

                     そんな生き方はしたくないと常々思っている私は、上野氏のこの言葉にとても共感する。ともすると同じ顔ぶれ、同じ仲間との交流しかしない日々では新たな発見は少ない。 

                     

                    松田解子(ときこ)を読む

                     

                     去年の秋から、ビクトリア大学Pacific & Asian Studies学部のSujin Lee助教授の呼びかけで、韓国人、中国人、日本人など数人が集まりブッククラブが発足した。

                     

                     

                     年齢層は同大の助教授や学生、リタイしたシニアと顔ぶれは多彩で、今は月一回の会合ながら、新たな人々との交流に好奇心を触発されている。Lee助教授は韓国出身だが、日本語、英語共に母語同然に遜色なく集りは日本語で行われる。

                     

                     読本は日本の松田解子と言うプロレタリア作家が、昭和12年(1937年)に書いた「生殖線」と言う小説。社会的地位の極端に低かった戦前の日本女性が、結婚の有無によらず、大方が通過していく性、妊娠、出産、子育ての体験を通して当時の日本社会のあり様を描いている。

                     

                     

                     この作品ばかりではなく、彼女の著書は一貫して声を発することの出来ない市井の人々、虐げられた労働者たちなど、20世紀初頭の社会革新の動きを中心に、資本主義への発展の側面を描いたものが多く、作家自身の生きた時代が強く背景に滲み出ている。

                     

                     生れは1905年(明治38年)で、当時存在した秋田県の荒川鉱山村。土地の小学校を卒業後、鉱山の事務所でタイピストとして働きながら文学に触れていった。 

                     

                     その後は秋田女子師範に入学し母校の小学校に赴任したが、21歳で職を得て上京。労働運動を通して知り合った大沼渉と結婚し、家庭を築き子育てを経た事が初期の作品に生かされている。

                     

                     亡くなったのは99歳になった2004年(平成16年)で、文字通り明治、大正、昭和、平成の4年号を生き抜き、今で言う「人生100年時代」を地で行った女性であった。

                     

                     解子の生存前後に婦人解放運動で活躍した女流作家たちには、平塚らいてう、与謝野晶子、田村俊子などがいる事も時代を反映していて非常に興味深い。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

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                    天照大御神の思い出
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                      ヒラリー氏

                      11月27記

                       

                      大嘗祭

                       

                       周知の通り日本は5月1日の新天皇の即位に伴い、「平成」から「令和」へと移行した。以来この半年の間、国を挙げて各種の行事が続き11月半ばの「大嘗祭」をもって一区切りがついた。

                       

                      テクノロジーの発達した昨今では外国住まいでも、日本と同時進行でこうした数々のイベントを見ることが出来た。

                       10月には国内外に即位を宣言する「即位礼正殿の儀」が行われ、170以上の国と地域から要人が参列。

                       

                       華やかな「饗宴の儀」が幾度となく開かれ、11月に入ってからは、「祝賀御列の儀」と呼ばれるパレードが皇居から赤坂御所まで走行し、沿道には11万9千人が集まったという。

                       

                       

                       今や「自然災害大国」の汚名を着せられても不思議ではない日本は、この時期次々と台風が襲い各地に災害をもたらした。そうした犠牲者に配慮し、予定のパレードを3週間伸ばしたのは、折に触れ「国民と共に」と言われる両陛下らしい決断と取られたようだ。

                       

                       そして一連の行事の最後に、一代の天皇が一回のみ行うという「大嘗祭」と呼ばれる‟神道の行事”が、11月4日の夜中から未明にかけて数時間執り行なわれた。

                       

                       

                       日本は神道が国の宗教と定められている分けではないため、この神事に国費を使う事に異論はあるが、政府が「公的性格」があると強調したことで恙なく終えた。

                       

                       部分的に多少の違いはあっても、基本的に平成天皇のやり方を踏襲した様だが、驚くのは僅か数時間のために総額27億円(!)もの税金が使われたことだ。おまけに神事は密室で行われた為、国民はその成り行きを目にすることは叶わなかった。

                       

                       

                       国民を思いやり、パレードの延期を考慮した両陛下の人となりとは何やら反比例するようだが、落差を感じた人はいなかったのだろうか。

                       

                       これについては弟の秋篠宮(当時)が去年の誕生日会見で、宗教色の強い大嘗祭への公費支出をめぐって意見を述べられたが、国民を巻き込む大議論にはならなかったのが残念である。

                       

                      去年6月ハワイで行われた日系人大会にご出席の秋篠宮殿下(当時)

                       

                       だが某調査によると、この意見に対し「賛成2286、反対179、どちらでもない33」という結果も出ている。

                       

                       この神事を行う意義は、『国家、国民の安寧と五穀豊穣を、天照大神及び天神地祇に感謝し祈念する』ためという。

                       

                       供される供物は、今年収穫された米、果物、乾物、魚などが全国から集められ、天皇陛下は、まさか生き返った分けではない天照大神やその他の神々と共にそれ等を供されたと報告されている。

                       

                       歴史を顧みればこの儀式が定まったのは7世紀というから、すでに1400年もの長きに渡って行われていることになる。

                       

                       となれば一朝一夕の変化を期待するのは困難だが、側室を排除し、二代に渡って民間から嫁いだ女性が皇后になり、雅子皇后を娘の愛子さまは「ママ」と呼ぶとか言われる時代。

                       

                       まだまだ過去の幾つもの自然災害によって、経済的、精神的後遺症に苦しみ、立ち上がれずにいる人たちが山のようにいる中、一夜の神事の為に27憶円もの税金を使うことには何ともスッキリしない思いを感じる。

                       

                       熟慮の末に、排除すべきものは排除する柔軟な姿勢があるべきで、それによって更なる国民の支持が得られるのではあるまいか。

                       

                      学芸会での天照大御神

                       

                       日本の神社に行けば何処にでも祀られている、と言っても過言ではない日本神話の主神の天照大御神。私は個人的にこの大御神に関し面白い体験をしている。

                       

                       それは小学四年生の時に起こった懐かしい出来事である。その頃小学校では「学芸会」という年一回の行事があり父兄に披露した。

                       

                       この年の四年生は、古事記にある太陽神の天照大御神と弟のスサノオノミコトにまつわる話を上演することになった。

                       

                       これはスサノオが居住地の高天原で数々の狼藉を働いため、姉は立腹し天岩戸(あまのいわと)に隠れてしまった。

                       

                       太陽を失ったため世の中は闇夜になり様々な禍が生じた。多くの神々は困り果て、工夫を凝らし岩戸から天照大御神を導き出したため、再び世の中は明るくなり、スサノオは高天原から追放された、という神話である。

                       

                       天照大御神が女性であることを知った私は、どうしてもこの役をやりたかったのだ。そこで多数決で配役を決める前日に私は一人職員室に行き、如何にこの役をやりたいかを担任に語ったのである。

                       

                       翌朝のホームルームでは、主役をやりたいと私が名乗り出た事や、その理由を担任が紹介し「異議のある者は手を挙げよ」と聞いてくれた。

                       

                      天照大御神を演じた筆者(中央右)

                       

                       結果は誰の反対もなかったことで、私はこの役を貰ったのだが、当時の皇帝と共に夕食を食べたという話しは含まれていなかったのが、今思うと何とも残念である。

                       

                       

                       

                       

                       

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