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寄稿文 カナダ - 日本

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ゆきのまち通信・・・盛岡・ヴィクトリア姉妹都市/キーパーソンの新渡戸稲造 1862〜1933
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    1985年以来の姉妹都市

    ある種の共通点を要因として、文化交流や親善を目的とした町同士のつながりを持つのが姉妹都市ですが、そこには歴史的な出来事が含まれる場合もあります。

    まさに盛岡/ビクトリア間の友好関係はそれによって成立し、そのキーパーソンは盛岡出身の
    故・新渡戸稲造氏です。

    一時は5千円札の顔写真にもなったり、日本では余りにも知られた人物ですが、生前は国内はもとより、海外においても大活躍した人です。

    ところが
    1933年にロッキー山脈の麓の町で開催された太平洋会議に出席した帰途に病に倒れ、71歳でビクトリア市の病院で客死しました。


    morioka
    Victoria Jubilee Hospital にある新渡戸稲造記念公園

    morioka
    その遠景。向こうには病院の敷地内にあるチャペルが見える

    すでに82年前の出来事ですが、これを縁に1985年に二つの町は姉妹都市の盟約を交換し、以来、青少年の交流などを含め、折りあるごとにお互いの都市を訪ね関係を強化して来ました。

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    姉妹都市提携30周年を記念して作られたケーキ

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    ヴィクトリアの「海鳴り太鼓」による演奏に輪を作って踊る参加者たち

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    宿泊ホテルで開催されたパーティーでのリサ・ヘルプス・ヴィクトリア市長

    30周年記念「友情の鐘」

    今年は提携30周年目で、5月中旬に盛岡から関係者、援護者など70数人が来市しました。


    morioka
    5月18日のヴィクトリア・デー・パレードには盛岡からのデリゲーションも参加

    4年前の東日本大震災の折に、当市から受けた温かいサポートに感謝する気持ちも含め、盛岡で制作された「友情の鐘」を持参し、ダウンタウンの美しいハーバーが見渡せる公園に設置したのです。

    morioka
    『友情の鐘』の設置式典で、谷藤裕明盛岡市長とリサ・ヘルプス・ヴィクトリア市長

    盛岡
    鐘の土台を設計した建築士のアラン・ロー氏と盛岡市長
    ロー氏は以前ヴィクトリアの市長であった


    morioka
    日本から来た女の子も着物姿で出席

    式典の日はすっきりと晴れ渡った早朝で、ビクトリア市長や関係者が列席し、今後も末永く両市の友好関係が続くことを願い記念行事は無事終了しました。

    morioka
    式典の後に鐘を鳴らす縄は取られたが、海を見渡す公園に今日も位置している

     

    〜*〜*〜*〜*〜

     
    新渡戸稲造氏のプロファイル

    悪童からジェントルマンへ、日本人から国際人へ
    カナダ・ビクトリア市で客死し「願わくばわれ太平洋の橋とならん」の言葉を残した
     
    盛岡

    文久2年(1862)盛岡鷹匠小路(現・下ノ橋町)生まれ。
    5歳で父十次郎が死去し9歳で兄の道朗と共に上京し母方の叔父太田時敏の養子となる。

    11歳で東京外国語英語科に入学以後、15歳で札幌農学校、21歳で東京大学選科生、22歳で渡米しジョン・ホプキンス大学に入学する。

    その後ドイツの3つの大学にも留学し農政、農業経済学を学ぶ。キリスト教に関心を持ち、渡米中にクエーカー教徒になり、信徒のメアリー・エルキントンと結婚。


    盛岡
    結婚25周年の銀婚式の日のメリーと稲造
    (2枚の写真は、盛岡タイムスが2014年に発行した「稲造と生きる」の小冊子より)

    帰国後は、札幌、京都、台湾、東京を中心に政府、教育関係の仕事に従事し、同時に世界を駆け巡り日本の発展に貢献。

    不朽の名著は
    381900)で書いた『BUSHIDO:武士道』で20数ヶ国語に翻訳されている。


    盛岡



    今年で生誕153年だが、生前のキラ星のような経歴を見ると「死してなお名を残す」という言葉が頭をよぎる。

    だが稲造の場合はこの道一筋ではなく、教育者、政治家、思想家、著述家、キリスト教信者など活動の幅が広く、どの分野においても知識と経験に基ずいた深い洞察力を持って社会に貢献したことが分かる。


    しかし幼少の頃は父親を早くに亡くしたせいか、手におえない悪童だったとか。5歳で「東京に行かせて欲しい」とせがみ、母親は父の弟で東京にいる太田時敏の養子にして教育を任せた。

    稲造を大きく変えたのは、明治天皇の東北行幸の際に農事に励むように家族に言われのを伝え聞き、また生涯の友となる佐藤昌介(花巻出身で後に北海道帝国大学初代総長)が札幌農学校に進学した事で後を追い学問の道に入ったことが大きい。

    この時はすでに創立者のクラーク教頭は去っていたが、自由闊達なキリスト教的雰囲気が校内に充満しており、共に学んだ学友には内村鑑三もいるなど、多くの友人たちから刺激を受けた。

    また図書館の幾多の本を見て「これをすべて読みつくそう」と決心するなど段々と考え深い落ち着いた学生になり「モンク(修道僧)」のあだ名を貰うほどになった。


    その後は21歳で東大に入るも満足せず、米国のジョン・ホプキンス大学に留学し、また華美を嫌うクエーカー教徒にもなって信仰を深める。この教会活動で、将来の妻メアリーに会うが、両家とも結婚に大反対する中5年越しの恋を実らせる。しかし本人は外国人妻を持ちながら生涯とても日本人的であったという。

    7年間の留学後は、東京帝大、京都帝大はもとより、引く手あまたの仕事をこなし各方面で活躍。特筆すべきは「婦人が強くなると国が衰えるなどは意気地のない男の言うこと。男は縦糸、女は横糸。どちらが弱くても織物は完全ではない」と女性の教育発展にも尽力したことだ。

    終の仕事は、太平洋問題調査会理事長としてカナダ・バンフで開催された第5回会議に出席したのだが、帰途体調を崩しビクトリア市で客死した。










     
    | - | 05:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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