SELECTED ENTRIES
RECENT COMMENTS
CATEGORIES
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS

03
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
--
>>
<<
--

寄稿文 カナダ - 日本

英王室のご立派な決断
0

     ヒラリー氏

     

     

     おやおや、現代版シンデレラ姫のお話しは「ここで極まれりか・・・!?」そう思った人は世界中にワンサといるに違いない。

     

     今更詳細を書くのは止めよう。

     

     ただ元王族の一人だったハリー王子と、色々と曰くあるアメリカ女性メーガン妃が、英国王室での地位を無くしたことで、カナダ・BC州のビクトリア市(以下V市)郊外に住むことが確実になりつつある。その町に住む者として、感じることを書いておきたいと思う。(称号は1/20以前のもの)

     

     まずこのニュースは、ヘンリー王子一家が恒例のノーフォーク州にある王室の別邸「サンドリガム・ハウス」で、エリザベス女王とクリスマス休暇を過ごさなかったこと。代わりにV市郊外の知人の屋敷に来ていたそうだ・・・、と言うニュースが人々の口に上ったことから始まった。もちろん地元紙のTimes Colonistがそれを報じたからだ。

     

     英国色の強い白人中心の小さな町V市。ニュースのスポットが当たることなど滅多にない静かな町V市。そんな場所で世界屈指のセレブ一家がクリスマス休暇を過ごしたとなれば、それはもう一大事件!ある事ない事を人々が囁やくのは無理ないと言うものだ。

     

     夫妻がカナダを選んだのは、イギリス連邦の加盟国であり英連邦王国の一つであるからに他ならない。加えて昔メーガン妃がカナダに住んだことがあり、良い思い出があるからと言うのも一つの理由だったとか。

     

     しかし日が経つごとに増える情報に伴い、常識あるカナダ人たちは「もし本当にカナダに住むことになったら、警備費はだれが?」と言う疑問だった。

     

     

     想像を絶するほどの費用は、RCMP(国家警察)が賄うことになると予測するのが常識と言うもの。カナダは立場上「来るな」とは言えない。さりとて彼らが居を構えても、世界にV市の名前が知られる以外に得になることは殆どないと言っても過言ではない。

     

     まあ例えば屋敷を購入するのなら不動産屋は儲かるだろう。

     

     すでに大手の不動産会社社長が、ニュース流出直後のインタビューに笑顔で答えていた。また屋敷の維持のためメイド、料理人、庭師等などが雇われる可能性があるかもしれない。

     

     となれば当地の人々の雇用促進に多少は貢献するかもしれない。また将来子供が私立校(当然!)に通うようになれば、学校は知名度が上がり関係者はホクホクかもしれない。だが現時点ではすべて「かもしれない」の域を出ない話である。

     

     微細に渡り報道される王室関連の収支が想像を絶する額のため、一般市民には「夢物語」を聞かされているようで現実味が薄い。そんな思いを反映してか、今月初旬の世論調査では73%が夫妻の移住に反対との結果が出た。

     

     だがよく考えて見れば、メーガン妃は多少ハリウッドで名の知れた女優ではあったにしても、結婚後「お妃様/サセックス公爵夫人」と呼ばれるようになったにしても、こんな高額のお金が動く生活は結婚前迄はやはり「夢物語」であった筈だ。

     

     それがどうだろう。王子様と結ばれ子供を出産し王室内での地位を確固たるものにしたことで、本来の自我の強いアメリカ女性に逆戻りしたのではあるまいか。

     

     幸運にも美貌であるとは言え、強烈な人種偏見のあるアメリカで、黒人とのハーフである出自には苦い思いもあったろうし、白人の父親との確執、すんなりと別れたとは思えない離婚歴もある。

     

     となれば人生の酸いも甘いも知っている38歳の筈で、自分で勝ち取った人生には絶対なる自信を持っている事は疑う余地がない。

     

     大学時代のスイートハートと結ばれた世の荒波知らずの義姉とは大違いで、堅苦しい王室に馴染めないのはよく分かる。

     

     一方お相手はと見れば、生まれた時から王子様として温室の中で育った3歳年下の世間知らずのお坊ちゃま。ただ一つ彼が背負っている拭いきれない悲しみは、わずか13歳であのような形で母親を亡くしたことだ。

     

     これが理由でパパラッチを憎悪し、出来うる限りそれから逃れようとする気持ちには同情する。しかしカナダに移住したからと言って、よもや彼等から逃れられるなどの甘い考えを持っていないことを切望する。

     

    クリスマス休暇でカナダのビクトリア市を訪れた時の写真

     

    今後状況は刻々と変わるだろうが、1/20エリザベス女王の声明は:

     ―娑聞澆慮務を退く

     殿下などの称号を失う

     8費支給は受けない

     ➃新居として改造したお城の改修費を返却する。

     

     つまるところ夫妻が望む自由な生活をしながら王室の仕事も時には係わると言う「いいとこ取り」は許さないと言う厳しいお達し。

     

     色々取り沙汰されても、要はハリー王子一家が満足の行く生き方を選べることが一番大事。クリスマス直後のローカル紙の論説を借りれば「When Royals visit(今はlivehere, Let them be, let them be」。

    まさにその通りであろう。

     

     

     

     

     

     

    | - | 06:15 | comments(0) | - | - | - |
    ビクトリア大学のブッククラブ
    0

       

       ヒラリー氏

       

      コクーン症候群

       

       去年の春行われた東京大学の入学式で「社会には、あからさまな性差別が横行している。東大もその一つ」と喝破したのに続いて、大学で学ぶ価値は「すでにある知を身に着けることではなく、これまで誰も見た事のない知を生み出すための知を身に着けることだ」と祝辞を述べた女性学のパイオニアで社会学者の上野千鶴子東大名誉教授を「知らない」と答える人は少ないだろう。

       

       

       著書は数えきれないほどあるが、2010年に著した『ひとりの午後』(NHK出版)と題した本の後書きには「コラボが好きである。それも未知な領域の人と組んで、自分でも知らなった未知の自分が引き出される経験を味わうのが楽しい」と。

       

       そんな気持ちを持っているからか、一介の物書きに過ぎないカナダ在住の私が著した『カナダのセクシュアル・マイノリティ―たち』という本を上梓した折りに、当時東大大学院のゼミで教えておられた氏に招かれて、学生たちに拙著を紹介させてもらった。

       

       

       引き続きその夏は、「山梨のコテージで缶詰になって仕事をするから」と氏がおっしゃるので、東大の真横のご自宅に一ヶ月ほど泊めて頂いた。

       

       こんなことを長々と書くのは、上記著書の後書きに強く共感するからだ。一般人の場合は、一人の人間が一生に知り得る人の数などたかが知れている。特に歳を重ねていくと、知人、友人の範囲が徐々に狭くなって行く。それを人呼んでコクーン(ミノ虫)症候群という。つまり、自分の殻に閉じこもって新たな出会いを求めないことを言うのだ。

       

       そんな生き方はしたくないと常々思っている私は、上野氏のこの言葉にとても共感する。ともすると同じ顔ぶれ、同じ仲間との交流しかしない日々では新たな発見は少ない。 

       

      松田解子(ときこ)を読む

       

       去年の秋から、ビクトリア大学Pacific & Asian Studies学部のSujin Lee助教授の呼びかけで、韓国人、中国人、日本人など数人が集まりブッククラブが発足した。

       

       

       年齢層は同大の助教授や学生、リタイしたシニアと顔ぶれは多彩で、今は月一回の会合ながら、新たな人々との交流に好奇心を触発されている。Lee助教授は韓国出身だが、日本語、英語共に母語同然に遜色なく集りは日本語で行われる。

       

       読本は日本の松田解子と言うプロレタリア作家が、昭和12年(1937年)に書いた「生殖線」と言う小説。社会的地位の極端に低かった戦前の日本女性が、結婚の有無によらず、大方が通過していく性、妊娠、出産、子育ての体験を通して当時の日本社会のあり様を描いている。

       

       

       この作品ばかりではなく、彼女の著書は一貫して声を発することの出来ない市井の人々、虐げられた労働者たちなど、20世紀初頭の社会革新の動きを中心に、資本主義への発展の側面を描いたものが多く、作家自身の生きた時代が強く背景に滲み出ている。

       

       生れは1905年(明治38年)で、当時存在した秋田県の荒川鉱山村。土地の小学校を卒業後、鉱山の事務所でタイピストとして働きながら文学に触れていった。 

       

       その後は秋田女子師範に入学し母校の小学校に赴任したが、21歳で職を得て上京。労働運動を通して知り合った大沼渉と結婚し、家庭を築き子育てを経た事が初期の作品に生かされている。

       

       亡くなったのは99歳になった2004年(平成16年)で、文字通り明治、大正、昭和、平成の4年号を生き抜き、今で言う「人生100年時代」を地で行った女性であった。

       

       解子の生存前後に婦人解放運動で活躍した女流作家たちには、平塚らいてう、与謝野晶子、田村俊子などがいる事も時代を反映していて非常に興味深い。

       

       

       

       

       

       

      | - | 20:38 | comments(0) | - | - | - |
      天照大御神の思い出
      0

        ヒラリー氏

        11月27記

         

        大嘗祭

         

         周知の通り日本は5月1日の新天皇の即位に伴い、「平成」から「令和」へと移行した。以来この半年の間、国を挙げて各種の行事が続き11月半ばの「大嘗祭」をもって一区切りがついた。

         

        テクノロジーの発達した昨今では外国住まいでも、日本と同時進行でこうした数々のイベントを見ることが出来た。

         10月には国内外に即位を宣言する「即位礼正殿の儀」が行われ、170以上の国と地域から要人が参列。

         

         華やかな「饗宴の儀」が幾度となく開かれ、11月に入ってからは、「祝賀御列の儀」と呼ばれるパレードが皇居から赤坂御所まで走行し、沿道には11万9千人が集まったという。

         

         

         今や「自然災害大国」の汚名を着せられても不思議ではない日本は、この時期次々と台風が襲い各地に災害をもたらした。そうした犠牲者に配慮し、予定のパレードを3週間伸ばしたのは、折に触れ「国民と共に」と言われる両陛下らしい決断と取られたようだ。

         

         そして一連の行事の最後に、一代の天皇が一回のみ行うという「大嘗祭」と呼ばれる‟神道の行事”が、11月4日の夜中から未明にかけて数時間執り行なわれた。

         

         

         日本は神道が国の宗教と定められている分けではないため、この神事に国費を使う事に異論はあるが、政府が「公的性格」があると強調したことで恙なく終えた。

         

         部分的に多少の違いはあっても、基本的に平成天皇のやり方を踏襲した様だが、驚くのは僅か数時間のために総額27億円(!)もの税金が使われたことだ。おまけに神事は密室で行われた為、国民はその成り行きを目にすることは叶わなかった。

         

         

         国民を思いやり、パレードの延期を考慮した両陛下の人となりとは何やら反比例するようだが、落差を感じた人はいなかったのだろうか。

         

         これについては弟の秋篠宮(当時)が去年の誕生日会見で、宗教色の強い大嘗祭への公費支出をめぐって意見を述べられたが、国民を巻き込む大議論にはならなかったのが残念である。

         

        去年6月ハワイで行われた日系人大会にご出席の秋篠宮殿下(当時)

         

         だが某調査によると、この意見に対し「賛成2286、反対179、どちらでもない33」という結果も出ている。

         

         この神事を行う意義は、『国家、国民の安寧と五穀豊穣を、天照大神及び天神地祇に感謝し祈念する』ためという。

         

         供される供物は、今年収穫された米、果物、乾物、魚などが全国から集められ、天皇陛下は、まさか生き返った分けではない天照大神やその他の神々と共にそれ等を供されたと報告されている。

         

         歴史を顧みればこの儀式が定まったのは7世紀というから、すでに1400年もの長きに渡って行われていることになる。

         

         となれば一朝一夕の変化を期待するのは困難だが、側室を排除し、二代に渡って民間から嫁いだ女性が皇后になり、雅子皇后を娘の愛子さまは「ママ」と呼ぶとか言われる時代。

         

         まだまだ過去の幾つもの自然災害によって、経済的、精神的後遺症に苦しみ、立ち上がれずにいる人たちが山のようにいる中、一夜の神事の為に27憶円もの税金を使うことには何ともスッキリしない思いを感じる。

         

         熟慮の末に、排除すべきものは排除する柔軟な姿勢があるべきで、それによって更なる国民の支持が得られるのではあるまいか。

         

        学芸会での天照大御神

         

         日本の神社に行けば何処にでも祀られている、と言っても過言ではない日本神話の主神の天照大御神。私は個人的にこの大御神に関し面白い体験をしている。

         

         それは小学四年生の時に起こった懐かしい出来事である。その頃小学校では「学芸会」という年一回の行事があり父兄に披露した。

         

         この年の四年生は、古事記にある太陽神の天照大御神と弟のスサノオノミコトにまつわる話を上演することになった。

         

         これはスサノオが居住地の高天原で数々の狼藉を働いため、姉は立腹し天岩戸(あまのいわと)に隠れてしまった。

         

         太陽を失ったため世の中は闇夜になり様々な禍が生じた。多くの神々は困り果て、工夫を凝らし岩戸から天照大御神を導き出したため、再び世の中は明るくなり、スサノオは高天原から追放された、という神話である。

         

         天照大御神が女性であることを知った私は、どうしてもこの役をやりたかったのだ。そこで多数決で配役を決める前日に私は一人職員室に行き、如何にこの役をやりたいかを担任に語ったのである。

         

         翌朝のホームルームでは、主役をやりたいと私が名乗り出た事や、その理由を担任が紹介し「異議のある者は手を挙げよ」と聞いてくれた。

         

        天照大御神を演じた筆者(中央右)

         

         結果は誰の反対もなかったことで、私はこの役を貰ったのだが、当時の皇帝と共に夕食を食べたという話しは含まれていなかったのが、今思うと何とも残念である。

         

         

         

         

         

        | - | 07:27 | comments(0) | - | - | - |
        いまだに発見される日本人移民の足跡
        0

          ヒラリー氏

           

          日系移民の居住跡

           

           今月7日にVintage Newsという媒体から「Abandoned Japanese Village Discovered in Canadian Forest」と題するニュースが配信された。すでにお読みの方もいる事と思うが、内容を簡単に要約してみたい。

           

           本土のノース・バンクーバーにあるCapilano Universityの考古学者Bob Muckle教授は、過去14年ほど、春になると学生を引き連れて、大学の更に北方に位置するSeymour River Valley辺りを発掘して来た。

           

           目的は今から100年ほど前の192030年あたりに、ヨーロッパから移住した人々の足跡を探るためであった。考古学の発掘と言うのは、予期していた物が全く発見されない事もあれば、反対に予想さえしなかった物が木々やシダに覆われた下から掘り出されることもある。

           

           ことは2004年にさかのぼるが、教授は一体を発掘の最中に、日本人が昔居住していたのではないかと思われる幾つもの品々を掘り出したのである。酒の徳利、ご飯茶碗、急須、時計、薬瓶、コイン、ボタン等など一千個以上にも及んだ。

           

           

           たゆまぬ発掘はつい最近まで続行され、過ぎ去った日々この地域に日本人がコミュニティーを造って居住していたことを確信するに至った。

           

           それは木材切り出しのための一時的な飯場ではなく、家族共々かなりの人々が住んでいたとなれば、「何故こんな山奥に?」という疑問が湧く。

           

           教授はその後の調査で、恐らく町に近い場所では日本人に対する排斥があったり、町中では経済的に困難でもあり、人里離れた山奥へと生活の場を移動したのではないかと言う。

           

           居住地域と見られる場所はフットボール競技場ほどの大きさで、辺りの木々は完全に伐採されている。そこに12個ほどの居住跡が見られ、有に4050人は住める広さという。

           

           また神社とおぼしき跡も発見され、一番平坦に整えられた一帯には、共同風呂の設備もあったようだと推測する。

           

           教授の調査記録によれば、1900年に州政府はHastings Companyという会社に木材切り出しの権利を与え、1918年にはエイキチ・カゲツと言う日本人のビジネスマンにも権利を移譲している。

           

           だがそれから6年後地域の伐採を終えた時、カゲツ氏はバンクーバー島にビジネスの拡大を求め移ったとみられている。

           

           しかし教授の調査でも分からないことは、この居住地がどれほどの期間存在していたのか、また住んでいた家族の名前なども謎のままであることだ。

           

           あくまでも想像の域だが、第二次世界大戦勃発後カナダ政府によって日系人が一掃されて強制収容所に送られる迄居住し続けた可能性はあるとみる。

           

           こうした考古学者と生徒たちのたゆまぬ努力によって、埋もれて永遠に省みられることがなかった可能性のある歴史が掘り起こされたわけである。

           

          ビクトリア市内にもある埋もれそうな過去

           

           彼等の努力はまことに称賛に価するものの、ビクトリアの町中にも日系史に取っては大事な場所ながら、近い将来歴史に埋もれてしまいそうな場所が幾つかある。

           

           その一つは、ダウンタウンにある日系人教会の真裏(516Fisgard)の、年輪を重ねたみすぼらしい建物である。ここは当時日本からの移民がビクトリアに到着した際に宿泊したオオサワホテルで、今も入り口には持ち主だったオオサワ・リンノスケの姓である「R」が真鍮で埋め込まれている。

           

           

           私が5年前にトロントから国内移住してすぐに見た時と今とでは、建物の様相は衰えるばかりで益々安いアパートと化している。

           

           

           いつの日かこの建物も、新しいビルを建てる金持ちのデベロッパーによって壊され、日系人の歴史が一つ消えるのであろう。

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

          | - | 21:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          「落書き」という破壊行為
          0

            ヒラリー氏

             

             人はある事象に何度も触れて慣れてしまうと、以前には嫌悪を感じていた事柄も段々と麻痺してしまうようになる。

             

             そんなことの一つに、町中によく見られる「落書き」がある。今に始まった現象ではないので特別に驚かなくなっているものの、最近ビクトリア市内にある公共の建物、指標、バスストップ、ちょっとした路地の塀など等に、得体の知れない落書きが特に多くなったと感じていた。

             

            ビクトリア市内に見られる落書き

             

             これは個人的に私だけ感じるのかと思っていたら、先日当市にあるDowntown Victoria Business Association (DVBA) Clean Teamという組織が、今年は過去最高の落書き率と報告書を発表した。私の思い違いではなかったようだが、現在すでに2018年の10445カ所を上回っている言う。

             

            これはダウンタウンのみの数字で、郊外を入れれば当然ながらその数は計り知れないとか。

             

            意味不明な落書き(ビクトリア市内)

             

            落書きはカビのごとし

             

             ビクトリア市には「落書き消除専門職」が一人フルタイムで働いているそうだが、数が余りにも多く、一つ消除するにも時間もかかりまさにイタチごっこである。

             

             落書きをする人たち(taggerと言う)は、大体はスプレーペイントやマーカーを使用するのだが、落書きの上に落書きを重ねている場合は、有毒化学薬品を使うため環境問題を誘発する。

             

            きれいに描かれたある会社の建物の絵の上に描かれた意味不明な落書き(ビクトリア市内)

             

             またそれによって建物に永久的なダメージを与えることもあり、歴史的な建造物の場合は取り返しがつかない。加えて家主には経済的負担が掛かり、公共の場所では税金が使われるため、この問題は市民にも負担が掛かることになるのだ。

             

             描かれている絵や字とおぼしき物は、殆どの場合一般の人には意味不明で理解しがたいのだが、7月辺りから極右翼の象徴とされるナチスの紋章Swastika(卍)が見られるようになったと言う。

             

             非常に気掛かりな現象だが、DVBAはどの落書きもすぐに消さないと知らぬ間にカビのようにはびこり、手の施しようがなくなると懸念している。

             

             中には落書きはアートだという人もいるが、これは石で窓ガラスを割るのと同じくらい悪質な行為で完全な犯罪だと関係者は言い切る。

             

             こうした悪戯をする人物の多くは、すでに警察も察知しているそうだが、現場を押さえるのが中々難しい。証拠を掴むためには、建物等のオーナーがセキュリティカメラを設置し、摘発に協力して欲しいと呼びかけている。

             

            会社の前にはベンツなどの高級車が停まっている

             

            朱に交われば赤くなる 

             

             人間の心理的行動問題に詳しいデンマークのGroningen 大学のKees Keizer社会心理学教授は、「人は悪い環境にいるとそれに伴って悪行を働くか?」という調査を以前実施した。

             

             ある街で『落書きをしないで欲しい』とサインがあり、実際何処にもそれが見られない自転車置き場の自転車に、何等かの広告チラシをハンドルバーに挟んだ。その場合、殆どの人はチラシを持って帰り33%がその場に捨てたが、周りに落書きのある場所だと69%の人がその場に捨てて立ち去った、との結果を得た。

             

             またもう一つの調査では、封筒に5ユーロ紙幣を入れて人目に付き易い郵便受けに入れて置くと、落書きのない通りでは13%の人がその封筒を盗むが、状況が反対の場合はその数字が倍になるそうだ。

             

             環境と人間の心理との関係が如実に垣間見られて面白いが、こんな状況を言い表した日本語の諺に『朱に交われば赤くなる』と言うのがある。

             つまり人は環境に容易に支配される生きものということなのだ。

             

             

             

            ここ迄くれば立派な壁画アート?(いずれもビクトリア市内で)

             

             

             

             

             

             

             

             

            | - | 10:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            ビクトリア・ボンサイ(盆栽)・ソサエティ
            0

              ヒラリー氏

               

               

               今年の年初頭から私は「バンクーバー・アイランド・ボンサイ・ソサエティwww.victoriabonsai.bc.ca」の会員になった。まさかこのようなクラブに席を置くなどとは、以前には考えられないことだったため、今でさえ信じられない気がしてならないのである。

               

               数年前にトロントから当地に国内移住してすぐに、Art Gallery of Grater Victoriaを訪れた。入り口を入って真っすぐに伸びた廊下を進むと、裏庭に面した所に木枠で囲まれた一角があり、幾つかの盆栽が棚に置かれていた。それによってここにも盆栽を趣味とする人たちのクラブがある事を知った。

               

              galleryの裏庭にはこんな神社の模型も設置されている。寄贈された沢山のオリエンタル・アートの収集でも有名である。

               

               正直に言うと私の中の「盆栽」とは、仕事を退職したご隠居さん、つまりお年を召した主にお爺さんが時間を持て余して始める趣味・・・と言う印象しかなかったのだ。もちろん頭の中では、今や日本のみならず「BONSAI」は世界的に人気があり、コレクターも沢山いる事は知っていた。

               

               とは言え偏見であることは十分に知りながら、日本文化の中で生まれ育っていない人々が、盆栽に興味を持つなどは何か不自然に思えてならなかったのだ。

               

               そんな思いを持っていた私が、ではどうして今や月一回の例会に出るようになったかについては、それなりの理由があるのだ。

               

               私の夫は道を散策している時など、犬を連れている人や、幼な子の手を引く人々と気軽に言葉を交わし冗談を言って談笑する。私もそんな雑談の中から、土地の人々の考えや行動を垣間見ることが出来るので、決して嫌ではないため彼を急がせたりしない。

               そんなオープンな人柄だから、新開地に来ても容易に友人をつくれるものと思ったのだが、それが中々難しいのである。

               

               だが考えて見ればそれは当然のこと。普通友達作りというのは、それが何であれ同じ趣味などを持つ人たちと興味を分かち合い、何度も会う内に親しくなるものである。

               

               トロントにいた頃は軽飛行機の操縦を趣味にしていたため、それを納める格納庫さえも自分で建設したりして友達と呼べる仲間が何人もいた。

               

               ところが西海岸に移住するにあたり、幾つものエアポートで給油しつつ、湖や平原を眼下に見ながらロッキー山脈を越えて愛機を運ぶ計画には、色々な理由が重なり無理である事が分かったのだ。そんなこんなで泣く泣く全面的に操縦を諦めた過去がある。

               

               と言うことで、今は他の得意分野であるIT関連の知識を磨き各方面に興味の矛先を向けいる。ということは机に向かう時間が半端でなく、体を動かすことが極力少なくなってしまった。

               

               これが体に良いわけはなく、心配した私が思い付いたのがBONSAIクラブへの入会であった。

               もちろん鉢植えの木を前に、矯(た)めつすがめつしながらチョッキン、チョッキンとハサミを入れることが運動になるとは思わない。

               だがこれなら私も、育った文化的な背景から知識を得るのは早く、BONSAI FRINDSを作るのも可能かと単純に思ったのである。

               

               ところがこれは実に「浅はか」な考えであったことがすぐに分かった。一回目の会合に出席した後の夫は大変なご立腹(!)。「自然に自由に伸びようとする根や枝を、針金を使って人間の思惑通りにするなど自分は賛成できない!」とのたまったのだ。

               

               良かれと思った妻の思惑はあえかに消えてしまった。

               だが私は自分が盆栽の「盆」も分からない内に辞めるのはしゃくにさわるので、時には友人を誘ったりしながら今も会合に出席している。

               

               また今冬の訪日の折りには、盆栽の町として有名な埼玉県の土呂市を訪れ、一般に公開している盆栽園を幾つか見て廻ったりもした。

               

              土呂駅の正面入り口

               

              駅の近くにある「さいたま市大宮盆栽美術館」

               

              2月末という季節柄、町中は紅梅が至る所に咲き得も言われぬ香りが漂っていた。

               

              土地の人によると、女性の園主はテレビ出演が多いことで知られているとか。「清香園 せいこうえん」の入り口

               

               

              高価な盆栽を闇夜に乗じて盗む人がいるという。防止のために塀の上には有刺鉄線が張り巡らされている盆栽園もある

               

               

              盆栽と言えば確かに針金などを使って、幹や枝を自分好みに曲げたりねじったりするのは不自然だという考えもある。

               

              Victoria Bonsai clubでの講習会風景

               

              だが体の大きなカナダの会員たちが、小さな植木の型作りに夢中になっているのを見ると、何か微笑ましくも感じるのだ。

               

              時には庭に出て自分の盆栽を持ち込んで専門家からアドバイスを受ける

               

               いつもながら自分の全く知らなかった世界を知ることに興味津々な私は、新たな世界が開けた感もあり、今は「ご隠居さんの手慰み」等と思っていた自分を反省している。

               

               ところで夫はと言えば、最近お気に入りの電気自転車を近くに住む実弟と一緒に買った。本土のバンクーバー市にある自転車屋から取り寄せたのだが、買って間もなくその自転車屋と提携しているビクトリアの同業者からエクスパートの技術屋が来てチェックしてくれた。だがメカに滅法強い夫は、その専門家が驚くほどの知識があるため、ちょっとした不具合は全部自分で調整してしまう。

               

              自然の多いビクトリアには打ってつけの趣味であり何よりも良い運動になり、兄弟仲良く遠乗りを楽しんでいる。おまけに休息で木陰に休んでいると、まだ珍しい電気自転車に興味を持つ人々が寄って来るため、そんな人々と「自転車談義」に花を咲かせているようだ。

               

              〜*〜*〜*〜*〜*〜

               

              閑話休題・・・

               

              以下の写真は盆栽クラブがある植物園内に位置する「タカタ・ガーデン」と呼ばれる日本庭園の風景。数多くの盆栽がそこかしこに並んでいる。

              入り口の一角には日系人の悲話にまつわるモミジが植わっている。

               

              真珠湾攻撃で始まった第二次世界大戦後すぐに、西海岸に住む日系人達はカナダ政府によって内陸のロッキー山脈の麓に強制移動させられた。それ以前に日本人が経営していたビクトリア市郊外の「ティーガーデン」と呼ばれた公園に植わっていたモミジが、あるカナダ人の手によって彼の家の庭に移植された。

               

              戦後50余年経った1999年に、日系人を中心とした有志の寄付でビクトリア市の北に「タカタガーデン」と呼ばれる日本庭園が造られ後、2008年にそのカナダ人家族が大切に育ててくれたモミジを寄付してくれた。樹齢は100年以上と言われているが、その後も枯れることなく立派に育っている。(↓)

               

               

              庭の各所に見られる盆栽の数々

               

               

               

               

               

               

               

               

               

              | - | 13:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              知る人ぞ知るInter-Cultural Association (ica)of Greater Victoriaの活動
              0

                 

                 移民としてビクトリアに最初の一歩を踏んだ人々の中には、ICAと呼ばれるこの組織のお世話になった人は多い。もちろん日本人の中にもいる事だろう。知る人ぞ知るその活動は、BC州で1971年に設立され、多くのNew Comersに各方面の手助けをしている。

                 

                 それぞれの理由で自国を離れ、カナダと言う未知の国で新たな一歩を踏んだ経験のある人たちには覚えがあるだろうが、新開地での生活には誰も希望と同時に一抹の不安を感じるものである。

                 

                 

                 英語クラスも常時開講しており助けになるが、日々の生活の第一歩を踏み出すには多大な勇気を必要とする。だが年月が経ち生活に慣れると共に、移民たちは自信と勇気を得てカナダ社会の一員として同化して行く。

                 

                 興味深いことにこの組織は、移民の人々へ手を差し伸べるに留まらず、いわゆる弱者の立場に立った視点で他の多くの活動も行っている。

                 

                 例えば6月半ばに二日間に渡って開催された「A Conversation about Ageism & The Value of Aging Across Culture」というイベントは、老齢者への社会の差別や加齢に伴う自身の思いなどを語りあおうというものであった。

                 

                 カナダの素晴らしいところは、こうした催し物に必ず背景の異なる他文化の人々を巻き込んで行われることである。

                 

                 ヨーロッパ系の白人が特に多いビクトリアでは、バンクーバーやトロントと違い、国が推進する多文化主義という言葉が浮いてしまう感じさえすることがある。

                 

                 筆者はトロントから当地に国内移住して来た数年前、ここは「白人の最後のフロンティアである」と聞かされて心底納得したのを覚えている。

                 

                 どんな会合に出てもパーティーに行っても、いわゆるvisible minorityである可視的少数派の出席はとても少ないか、皆無であることも稀ではないからだ。

                 

                 そんな中、今回のイベントはAcross Cultureと言う謳い文句や、またこのイベントをどのように仕切るのかに私はとても興味をそそられた。とは言え出席してみれば、やはり95%はヨーロッパ系白人であることに変わりはなかったが・・・。

                 

                 日本でもシニア向けのイベントに参加するのは女性が多いのが常だが、ここも例外ではなかった。

                 

                 夫妻での参加も何組かあった中、外見はお歳を感じさせられるものの、元気で溌剌としたシニア女性が多くを占めていた。

                 

                 日本人と違うのは、他人の思惑などを余り気にしない為、どんな質問にも多数の意見が飛び交うし、デモストレーションでは臆せず積極的に人前に出る。

                 

                 

                 また「シニアに対する社会の偏見に遭遇したことがあるか?」の質問には、司会者が前に置かれた黒板代わりの紙にまとめて書くのももどかしい程の経験談が語られた。

                 

                 先日雇った若いガーデナーが、予想以上に木々の枝を伐採してしまったので、怒ったところ謝りもしないで「心配しなくていいよ、また伸びるから」と言われたとか、全くの他人から「honey」と呼ばれて「馬鹿にされた感じがした」などの話には、似たような経験をした人から大いなる拍手が沸いた。

                 

                 こうした話で打ち解けて来てからはグループセッションに入り、最初は二人一組になって自分の名前の由来やその意味を相手に伝える。例えばよくあるBarbaraMaryDavidと言った名前にも、付けた親の思いや本人の気持ちがありそれぞれの出生が感じられて興味深い。

                 

                 

                 次にグループは数人に拡大されて、日々の生活の中で感じている思いや、過ぎ越し方の思い出などを自由に発表する。言って見ればそれは自己開示と言えるだろうが、決して強制するものではなく、どんなテーマでも語り部の人以外は静かに聞くという姿勢は守らなければならない。

                 

                 発表者のテーマに対して聞き手たちは決して「自分も同じ経験をした」とか、「そういう時にはこうした方が良い」等の意見は言わないことが鉄則。一人の持ち時間は3〜4分程と限られていて、話し終わったら全員が一言「Thank you」と言って話し手を労う。

                 

                 会の終盤には、各グループから選ばれた一人が会場の全員の前で同じ話を披露する。笑いを誘う話、ちょっとしんみりとする話、多くの共感を得る話・・・等々。

                 

                 

                会の進行をしたファシリテーターのアフリカ系カナダ人女性

                 

                 自分とは違った生き方や考え方を知るのは楽しく、有意義な時間であったし、会の運び方に無駄がない事に感心させられた二日に渡る各二時間余りのイベントであった。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                | - | 03:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                言葉の変遷
                0

                  ヒラリー氏

                   

                   

                  ビクトリアの観光シーズン

                   

                   毎年「ああ、ビクトリアにいよいよ観光シーズンが来たな」とそのサインを感じさせてくれる春先の様子を見るのが私は好きだ。梅が終わり桜が咲き出す頃になると、町中には人力車、馬車、観光客用の“Hop-on Hop-off”のサインが車体に書かれた赤い二階建てのバスが走り出す。

                   

                  ビクトリア市のダウンタウン

                   

                   お天気が飛び切り良い日には、二階の屋根がオープンになったこのバスには、溢れんばかりのツーリストが乗っていて、ここぞというスポットに来ると速度を落とすため、皆一斉にカメラを構える。何処の国からの人々もこの動作は同じで、見ていると何だか微笑ましい。

                   

                  ビクトリアのダウンタウンはこの時期観光客で一杯になる

                   

                   もう大分昔の事になってしまったが、私も夫と共に2人の子供を引き連れて、世界の幾つもの国々を訪れた経験がある。その当時は今のようなテクノロジーの発達は無かったので、記念撮影はもっぱらカメラであった。4人揃って撮りたい時には、周りの誰かにシャッター押しを頼まなければならなかった。

                   

                   当時はオートフォーカスのコンパクトカメラが主流で、俗称‟バカチョン“と呼ばれた持ち運びのた易い、素人でも操作の簡単な物が大方を占めていた。

                   

                   この呼称の本来の意味は「馬鹿でもチョンとシャッターを押せば写真が撮れる」ということで使われ始めたそうだ。だが後日「チョン」が「チョンコ」という朝鮮人への侮蔑語に通じると解釈され、放送禁止用語になったという。

                   

                   丁度北米では、昔日本人を公に「ジャップ」と呼んでいた頃があったが、それは「ジャパニーズ」の略だったと昔を知るシニアの欧米人は言う。しかし時が流れ、このように呼ばれることに不快感を持つ日系人が増えたことで、今では禁句になっているのと同じことだ。

                   

                   言葉は時に鋭い矢のように人の心を射抜く。たった一つの単語でもそれによって傷つけられる人がいるのなら、再検討の余地がある事は言うまでもなく、使用禁止になるのは当然である。

                   

                  呼称の移り変わり

                   

                   記憶に残っている日本語の呼称変更論議の一つに、日本経済新聞の夕刊を賑わした「トルコ」という言葉があった。

                   

                  かなり昔のことになるが、その当時これは、いわゆる法すれすれで商売をする特殊浴場/マッサージパーラーの代名詞だったのだ。それに対し日本在住の某トルコ女性が不快感を示し別称を呼び掛けた。これが静かな社会問題に発展し、その後「ソープランド」と改名された。

                   

                   だが不思議なことに、今この二つの言葉の歴史をWikipediaや広辞林の第4版(1991年)で調べても載っておらず、言葉の変遷が抹殺されてしまった感がある。

                   

                  『混血児』『アイノコ』『ハーフ』

                   

                   もう一つは、別称を呼び掛けたものの残念ながら成立しなかった言葉に「ハーフ」というのがある。一般的には、日本人と外国人との間に産まれた子供を指すことは今や誰でもが知ることである。最近ではテニスの大坂ナオミ、タレントのローラ、ベッキーなどを始めとしてスポーツ界、芸能界にはワンサといて全く珍しいことではなくなった。

                   

                   だがこの言葉にも変遷があり、戦後すぐには「アイノコ」「混血児」と呼ばれた時代があったのだが、今それを知る人はまことに少数になってしまった。

                   

                   今は押しも押されぬ俳優として活躍している草刈正雄も、自分の出生で辛い思いをした時期があった事を以前明かしている。

                   

                  オフィシャルサイトより

                   

                   これもやはり日本経済新聞が「ハーフ」を「ダブル」にする呼びかけのような記事を載せたものの、いつの間にか立ち消えになってしまい新語は生まれなかった。

                   

                   その時の「ハーフ」の人たちの言い分は「人格が半分としか見られないようで嫌だ」というものだったのだ。私もその思いはすごく理解でき「ダブル」という言葉の誕生を強く望んだものだ。

                   

                   さて、どうでしょう?

                   これ程沢山いるハーフの皆さん、もう一度ここで「ダブル」に変える大きな波のうねりを引き起こして見ませんか?

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                  | - | 07:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  帰巣本能
                  0

                    ヒラリー氏

                     

                    望郷

                    最近シニアになってから「生まれ故郷に帰ろうか・・・」と迷う人の話をよく耳にする。もちろん日本人の場合は日本へとなるのだが、例えばイタリアやメキシコからの人たちも、彼等とのふとした会話から、そんな思いを感じている人に出会い驚かされることがある。

                     

                    どの人もすでに何十年もカナダに住み、当地での生活に慣れて心身ともに自由に暮らしている。だが歳と共に生まれた故郷への思慕がつのって迷いが生じるのであろうか。

                     

                    これは経済的に豊かで、度々本国に遊びには帰ることが可能な人達でも、それゆえに返って、年齢と共に精神を癒してくれる(かもしれない)場所が懐かしいようだ。

                     

                    動物には帰巣本能というものがあり、そのために鳩は巣から離れても再び戻って来られるし、犬や猫もかなり遠くに連れて行っても飼い主の元に戻ってくることが多いと聞く。

                     

                    また人間の場合よく例に挙げられるのは、罪を犯して何年も逃走し続けても、年月が経つと故郷が懐かしく「ちょっと・・・」という思いで戻ってくることがあるため、警察はこうした生得的能力を利用して犯人逮捕につなげると言われる。

                     

                     

                    面白いことにこの帰巣本能は男性の方が女性より強いそうで、当然ながら年齢によっても差があるようだ。しかし例え故郷が緑なす田舎で、昔は野原を駆け回って遊んでいた懐かしい思い出があっても、♬ウサギ追いしかの山、小鮒釣りしかの川・・・♬が、今も同じであえない事は大方の人は知っている。

                     

                    そんな原風景に再びお目に掛かれるとは思えなくても、故郷が懐かしく思えるのが「望郷」と言うものなのだろう。

                     

                    終わった人

                     

                     

                    この23年日本で非常に話題になっている作家・内館牧子の『終わった人』という小説がある。すでに読まれたり、映画化されたのを観た方も多いかと思う。

                     

                    これは日本の典型的なサラリーマンの退職後の人生を描いている。毎日が日曜日になった主人公は暇を持て遊び、何とか退屈な日々から逃れようと職業安定所のハローワークで高齢者向けの職探しをしたり、カルチャー教室に通ったりと試行錯誤する。

                     

                    だが高学歴と立派な職歴がネックになり、思うように舵を切れず悶々とした日を送る。

                     

                    そんなある日、スポーツジムで知り合った新興のIT企業社長と出会い、思わぬ人生の転換が訪れる。だがそれも23年後には借金を背負って潰れ、理想とした輝かしい退職後の人生が送れない。

                     

                    それに並行して専業主婦だった妻は、子供が巣立った後に美容学校に通って資格を取り、近所の美容室でつつましく経験を踏んだ後、自分の店を経営するまでになって行った。

                     

                    当然ながらギグシャクとした夫婦関係になり、それにピリオッド打つために二人は「遠距離婚」を選び夫は生まれ育った盛岡に戻ることを決心する。

                     

                    ビクトリア市は盛岡と姉妹都市。両市友好の印である鋳物で出来た鐘が、ビクトリア・ハーバーに近い公園に設置されている。勿論鐘が重いのは分かるのだが、以前当市の市長だったという某建築家がt造った支えの枠組みは、頑丈な出来ではあるものの何とも頂けない。もう少し優雅にできなかったものか?!

                     

                    勿論そこ迄決心するには長い心の葛藤があるものの、家があり、親兄弟が居て、友が居る故郷は彼にとっては何よりも心の安らぎを与えてくれる場所なのだ。

                     

                    東京を離れる日が近い真冬のある夜、同郷の友と酒を酌み交わした二人は、したたか飲んで別れを惜しんだ。その時友人の口から出た言葉は「胡馬(こば)北風に依(よ)る」であった。彼は「北方で生まれた馬は、北風が吹くたびに故郷を懐かしむ」という意味だと説明する。

                     

                     これはあくまでも想像の世界の小説ではあるものの、ふと室生犀星の「「ふるさとは、遠きにありて思ふもの〜」で始まり「遠きみやこにかえらばや」で終わる『抒情小曲集』の中の詩が頭をよぎった。

                     

                     架空の人物たちの物語ながら、主人公に心からのエールを送りたい。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    | - | 07:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    訪日雑感
                    0

                      ヒラリー氏

                       

                       

                       

                      例年なら11年半程の間隔だった訪日が、諸事情で今回は2年半振りであった。たったそれだけの期間なのに、日本の発展振りには目を見張るものがあった。

                       

                      特に東京周辺では、周知のオリンピックを前に突貫工事が日夜行われている。渋谷などはその好例で「23日行かないと出入口が全く違った場所になっている」と住民でさえ驚きを隠せない様子だ。

                       

                      江の島がオリンピックでヨット競技の会場になる。

                      そのため小田急線の終着駅、片瀬江ノ島駅も化粧直しをしている。

                       

                      首都圏のそこここで行われている、天を貫くほどの騒々しい工事の音を聞きながら、オリンピック開催国に起こりがちな大会後の不況が「どうか日本に起こりませんように!」と願わずにはいられなかった。

                       

                      加えて思いを巡らせたのは、来月(41日)から改正される出入国管理法の施行に伴って、日本で働く外国人の受け入れ枠が広がることへの深い思いであった。

                       

                      総務省と厚生労働省が発表した最新の統計を軸に、日本経済新聞が発表した「外国人依存度」を全国平均で見ると、2009年には112人に一人だったのが2018年には46人に一人になっている。伸び率は2.4倍でこれは大阪も同比率だが、鹿児島、福岡に至っては3.7倍である。

                       

                      改正施行は来月とは言え、すでにオリンピック関連の突貫工事の現場で働く労働力を、この助っ人たちが補っているであろうことは想像に難くない。

                       

                      今や広島の漁業、茨城の農業などを始め、彼らの手を借りなければ成り立たない仕事が山積みしているのだ。

                      業種別の人種分布を見れば、いわゆる肉体労働を伴うような仕事にはタイ、インドネシア、フィリピン、中国、韓国・朝鮮と言ったアジア系の人々が殆どで、教育・学習支援、生活関連、娯楽業、公務などの‟きれいなお仕事“にはアメリカ、イギリスからの人々が多いことが分かる。

                       

                      豊富なお総菜売り場。こんな所にも外国人労働者が働いている

                       

                      しかし政府は、主に肉体労働を補う14種の仕事に就く予定の34万人(5年間)は、例外を除けばあくまでも「日本の労働力不足を補う一時的な滞在者」であり、将来移民として定住することは今の時点では視野に入れていない。

                       

                      だがこれだけの人数が日本全国に散らばって行くとなれば、働き手の数だけの個々の思いと生活があるわけで、十羽一絡げにまとめること等出来ない相談だ。

                       

                      加えてその多くが若い男女であることを思えば、将来同国人同士、あるいは日本人との「恋や愛」が芽生えることも不思議ではない。にもかかわらず、もし女性が妊娠でもしたら「はい、それ迄よ」とばかりに日本を追い出される羽目になるという。

                       

                      また妻子は同伴できないことが原則のため、もし男性が日本女性と関係を持ち、その女性が子を産んだ場合、子供が日本国籍を持つことは可能になる。今流にいえば「不倫の関係」だが、そうなれば本国の妻子たちとトラブルになることは目に見えている。いつもながら政府の考えの浅さによる社会問題が起こることは必須だ。

                       

                      訪日中のある日、私は東京へ向かうJR線の中で隣に座るネパールから夫婦で来ているという女性と言葉を交わした。

                       

                      まだ34歳とのことだが国の風習として早婚なため、すでに18歳の息子がおり、今はオーストラリアの大学に留学しているとか。「ネパール語、英語、日本語が堪能なので将来は三ヵ国語を活かしての仕事について欲しい」と言葉少なに語っていた。

                       

                      「で、あなた達将来はどうするの?」との問いに、「日本では移民になれないから、働けなくなったら本国に帰る」という。ビサの詳細は聞かなかったが、日本経済の底辺を支えるこうした人たちを「日本は見捨てるの?」と私は怒りさえ覚えた。

                       

                      だが将来は「なし崩し移民」も可能になるかもしれないという意見も聞かれはするが今のところは不透明だ。

                       

                      政府の施策のなさで迎えた自業自得の少子高齢化問題を補うには、こうした労働力を大事にしなければ日本の将来はないとつくづく思ったものだ。

                       

                      二月半ばには久しぶりに鶯の声を聞いた。

                      「梅」に「鶯」とは言え、まだ寒い日々で唱歌「早春賦」を思わず口ずさんでしまった。

                       

                       

                      | - | 11:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |