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寄稿文 カナダ - 日本

ビクトリアに初の麻薬インジェクション・センター開設
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    ヒラリー氏

     

     

    今から14年前の2003年に、バンクーバー市のEastサイド(ホームレスなどが多い地域)に、スーパーバイザーが常駐する「麻薬インジェクションセンター」が開設された。

    http://www.vch.ca/your-health/health-topics/supervised-injection/supervised-injection

     

    このニュースを聞いた時、私は非常に驚くと同時に「一体どんな経緯を経ての結論なのだろうか?」と強い興味が湧いたのを覚えている。

     

    大都会トロントに先駆けてのことであり、カナダは勿論のこと、北米大陸では初めての試みであった。当然ながら賛否両論が渦巻き、多くは「麻薬の使用を奨励することになりかねない!」と声を大にして反対した。


    しかしそんな反論をよそに、今バンクーバーには2ヵ所が稼働している。

     

    それから14年後の今、今度は海峡を隔てたビクトリア市に同等の「仮施設」が2ヵ所オープンされた。開設の理由は2003年と同じで「こうした施設があることは蔓延の防止に繋がり、過剰摂取による死亡率が減少する」というのだ。

     

    場所はいずれもダウンタウンで、ホームレスの援護センターとしてビクトリアではとみに名を馳せている「Our Place Society」と、「テント・シティ」という、この夏までホームレス200人ほどがコミュニティを作って陣取った場所(州裁判所の一角にある公園)の近くである。

     

    BC州の保険大臣は、申請の詳細を連邦政府が素早く受け入れることを要望している。それによって本開設がよりスムーズになると言い、こうしたアクションを通して漸進的なアプローチをする以外に、現時点の深刻な薬物問題を反転させる方法はない、と断言する。

     

    現在、連邦政府のヘルス・カナダが決めている26の強力なドラッグ規約法を、BC州政府は同施設を運営するにあたり、法案C-37を提出し条例を5つにまで軽減することを希望している。


    主な項目は:
    犯罪率に影響をおよぼす領域
    ローカル地域の状況による指針
    規制に沿って設立された施設の運営
    施設維持に可能な情報の提供
    コミュニテイの理解を得るためのサポート

     

    BC州の去年の1月から10月までの過剰摂取による死亡率は622人で、内60%の死者は強力な合成オピオイドのフェンタル(fentanyl)によるものである。

     

    そのため、国外から入るこの薬物のピルやカプセルを作製する器材の輸入には、今後更なる規制を設け厳重に取り締まるとことも条約に盛り込むことを要望している。

     

    こうした一連の動きに世論はどう反応しているかと言えば、蔓延問題は誰もが解決すべき重要事項とは思っているものの、やはり賛否両論である。

     

    だが一番多く聞かれるのは、その資金を健康保険に廻し麻薬患者がカウンセリング出来る場所をもっと増設し、薬物患者がよりアクセスし易いようにすべきではないか、との意見である。

     

    今後の動きを注視したい。

     

     

     

     

     

    | - | 06:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    トランプ時期大統領
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      ヒラリー氏

       

      11月27日記

       

       

      トランプ氏が次期大統領になることが決まってから今日で19日目になる。当然ながら、この人に関する論評や見通しが日々あらゆるメディアに登場しない日はない。

       

      そんな中11月17日に先進国の中で一番早く彼に逢いに行ったのは日本の安倍首相。両者ともゴルフが大好きということで、国産の50万円もするゴルフのドライバーをお土産にはるばるNYに出かけた。

       

      会見後の首相は「選挙中のトランプ氏とは全く違う別人で、日本のこともよく勉強していた」とのコメントを出した。

       

      お返しに首相が何をプレゼントされたかの詳細は定かでないが、一つは選挙中にかぶっていた野球帽だったとか。今アメリカでは、サインが縫い込まれた韓国製のものが出回っているとのことである。

       

      「風が吹けば桶屋が儲かる」の諺通りだが、まさか安倍首相がその安物の一つのみを有り難く「頂いてきた」わけではあるまい(と思いたい)。

       

      今となってはかなり前の話しになるが、選挙前には浮動票が多く、最後まで選挙情勢を読み切れなかった。原因の一つは「トランプは大バカで、人種や女性差別的な発言もする。でもエリートばかりが支配するワシントンに風穴を開けるために彼を送ってみようか・・・」と密かに思った人が多かったためと言われ「変化」を求めた人々のある種の本音が結果に出たわけだ。

       

      一方ヒラリー氏がなぜ勝てなかったかについても、いろいろと分析されている。

       

      女性や若者の圧倒的な支持があったかに見えたが、不満を持つ中間層の人々を取り込めなかったと見る向きが多い。彼女を支配階級(エスタブリッシュメント)の代表と感じたり、最終戦まで問題になった私用メールの件で信用を失ったことは確かだろう。

       

      だが、それもこれもすべて承知ではあるが、もう一つ、少なくとも日本の主流メディアでは余り話題にしなかったことの一つがヒラリー氏が女性だったこと。それがどこかで票を獲得出来なかったことに繋がっていないか、と思うのだ。

       

      つまり硬くて高い「ガラスの天井」の存在である。彼女は選挙期間中「尊大」「お高い」と言われたが、もし男性であったら同じような批判に晒されただろうかと思う。

       

      あるアメリカの調査に、成功者の名前が女か男かによって第三者の受け取り方が違うという結果が出ている。つまり男性名の場合は好感度が高いのだが、女性だと自分勝手で共に働きたいとは思わない、というのだ。

       

      「まさか今のアメリカ社会で!?」と思う人もいるだろうが、トランプ氏の言動を見れば容易に分かろうというものだ。あれほど女性蔑視の言葉を吐いても、一国の大統領になってしまうお国柄であることを忘れてはなるまい。

       

      それにしても女性初の大統領を夢見たヒラリー氏。当時48歳の夫が現職大統領だった時代に、たかだか21歳の女の子との不倫騒動を起こし、恥をかかされながらも離婚しなかったのは「いつか女性初の大統領に!」との夢があったからと言われている。

       

      ヒラリー氏

       

      想像の域はでないものの、ヒラリー氏が女性初の大統領にならなかったことで一番溜飲を下げたのは、不倫の相手であったモニカ・ルウィンスキーではなかろうか。

       

      ヒラリー氏

       

      高校を出たての世間知らずの娘だった彼女のその後の人生はメチャメチャにされたと言う。しかも不倫の相手は、ルウィンスキーのみならず、ジェニファー・フラワーズ等など・・・噂が絶えなかったが、そのビル・クリントン氏はすっかり白髪になったものの孫に相好をくずす好々爺になり、過去に何もなかったかの如く妻の応援に走り回る「良き夫」振りであった。

       

      世の中とかく腑に落ちないことが多いものだ。

       

       

      | - | 13:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      美しい桜の背後にある日系カナダ人の悲史
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        ブリティッシュ・コロンビア州のビクトリアは、地理的に日本から一番近いため、当国に最初に来たパイオニアたちは、まずこの地に第一歩を踏んでいる。

         

        歴史を遡るとすでに140年も前のことになる。

         

        桜

        昔とは大変に異なる現在のビクトリア・ハーバーだが、写真婚の花嫁たちはまずここに到着した

        日系二世

        当時は一旗揚げて日本に帰る者や、またアメリカに渡る足掛かりの地として来た者もいたが、一方日本から花嫁を迎え定住した者も多かった。

         

        生来が真面目な日本人は、事業に成功し、家族と共に当地に根を張って行ったのである。

         

        ところが先の大戦が勃発するや、それまでの努力は水の泡と化した。

         

        カナダ政府は、1942年4月に彼らを敵国人として扱い有無を言わせず財産を没収した。

         

        その直後、バンクーバーのヘイスティング公園にあった悪臭立ち込める牛舎にまず収容し、その後、本土のロッキー山脈の麓の町々に急きょ建てたバラックまがいの幾つかの強制収容所に、一人残らず送り込んだ。

        (Wallace A. J. Smith と言う白人男性と結婚した日系二世のSally Kuwabaraのみは例外として島に残った)。

         

        それまで良き市民として生活していた人々には、晴天の霹靂であったことは言うまでもない。

         

        だがそれに先駆ける1937年春、まだ平和だった頃に行われた英自領記念日に、日系人は紙の桜でフロートを飾り、一等賞の300ドルを市から授与された。

         

        彼らはそれを返上し桜の苗木を買うように願い出た。

         

        桜

        日系人の寄付で最初に桜の苗が植えられた通りTrutch Street

         

        だが戦後彼らは諸事情で当地には戻らず、遠く離れた東部のオンタリオ州などの町々に移動し、春爛漫の花の盛りを一度も見ることなく亡くなった人も多かった。

         

        桜

        春になると至る所で見事な花を咲かせる市内の桜

         

        桜

         

        桜

        夏にみられる名残りの桜

         

        悲しい歴史を知ってか知らずか、市内の何百本もの桜はその後すくすくと育ち、今はビクトリア市の春の風物詩となっている。

         

        そんな過去を知るほどに、昔は余り気にも留めなかった桜の花を模した小物に、最近は何かと目が奪われる。日本なら安物の雑器で価値などないだろうが、どれもひどく愛おしく思われて仕方がない。

         

         

        桜

        骨董屋で見つけた桜の花の描かれた雑器

         

        (アメリカ政府の日系人に対する補償が成立したのを受け、1988年にカナダ政府も歴史の汚点を反省し、日系人への公式謝罪と犠牲者一人当り$21,000ドルの補償金を支払った)

         

         

         

         

        | - | 08:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        BC州・ビクトリアのお盆の供養
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          お盆

          往く夏を惜しむバラの花

           

           

          8月27日(土)記

           

          8月も後45日で終わるかと思うと、何か一抹の寂しさを感じる。夕日の落ちる時間も早くなったし、朝夕の涼しさもひと際感じられるようになって来た。

           

          長年住んだトロントの夏の締めくくりは、何と言っても8月後半の二週間余り、オンタリオ湖畔のCanadian National Exhibitionsと呼ばれる場所で 開かれる博覧会である。

           

          観覧車、ローラーコースターなどの乗物を始め、各種のゲーム、お化け屋敷、農産物展、有名シェフのデモや試食、ファッションショー、各種コンサート、そしてショッピングの売店やレストランが所狭しと軒を連ねる。

           

          これは9月のレイバーデーまで続き、町中はワサワサと落ち着かない。何回か行けば毎年同じことに気付くが、生粋のトロントニアンのある友人は、「これに行かなければ夏は終わらない!」と飽きもせず毎夏出かけていた。

           

          そんな大々的な催し物などはないビクトリアでは、さて一体何によって夏の通過を感じさせられるのか?

           

          冷静に周りを見廻すと、マラソン競争、自転車競走、はたまたドラゴンボート競争等など、健康志向の催し物が多い。加えてギリシャ人のグリーク・フェスティバル、スペイン人のフラメンコ大会、インド人の民族祭り、亡き人を弔うポルトガル人の行列などが催される。

           

          一か所に集まって大々的に…とはならないし、その規模の小ささには微笑ましささえ感じるが、どれも素人ぽっくって一生懸命なのは見ていて気持ちがよい。

           

          そこに加えて、日本人、日系カナダ人にとっては真夏の「お盆」の集まりがある。

           

          お盆

          100人ほどが集まるお盆の行事

           

          この行事を仕切るのは、本土のStevestonの町にある浄土真宗のお寺から来られるグラント・イクタ僧侶である。日系人150余体が眠るビクトリアのロス・ベイ墓地に来られるまでには、島の各所に残る古い日系人墓地を数か所巡り、お墓の掃除をして清めた後に先祖の霊のために野外での祈祷を行うのである。

           

          お盆

          本土Stevestonの町にある浄土真宗のお寺から毎年島の数か所にある

          日系人の墓参に来られるグラント・イクタ僧侶

           

          お盆

          野外に設けられた祭壇

           

          お盆

          読経の中でお焼香を済ませる

           

           

          去年この二日に渡るツアーに参加して、西海岸での日系史に改めて向き合い深く頭(こうべ)を垂れた。

           

          もちろん「お盆」とは日本特有のもので、「迎え火」「送り火」を焚き、ナスときゅりに割り箸を刺して馬と牛に見立てた精霊馬(しょうりょううま)を飾るのが習わしである。が、今どきは日本の都会などでは余り見られなくなったその行事を、この島に来て体験した時は、正直言って驚いたものである。

           

          私は今、英語で書かれた約140年前に始まった日本人のパイオニアたちの移民史を、グループで翻訳する仕事をまとめている。思っていたよりずっと大変な仕事であるが、我々の先祖の歴史と向き合うよい機会であることに間違いはない。

           

          白人社会の中で、何よりも強制移動という言葉にはいつくせない差別と闘いながら生き抜いた先人の頑張りがなくしては、我々の今の生活はないと言えるだろう。今後も一年に一度のお盆のお墓詣りで、彼らの過ぎ越し方に思いを馳せたいと思う。

           

          お盆

          ロス・ベイ墓地に眠る150余体の内、幼児の時に亡くなったのは50人ほどになる。

          今年はその子供たちのお墓に縫いぐるみを置いて供養した

           

           

           

           

           

          | - | 15:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          「死」と向き会うということ
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            第二次大戦後に生まれたベビーブーマー(団塊の世代)が社会の一線から退き、退職期に入っているのは世界的傾向でカナダも例外ではない。

            以前にもこの欄で書いたが、ビクトリアのシニア率(2011年国勢調査)は18.4%で全国平均の14.8%より上である。(今年はまた国勢調査年のため数字が更新されるだろう)

            過日そのシニアの多い町に「日本看取り士会」という組織の会長と、その一向が来て講演会を行った。この分野に私には全く予備知識がなかったが、漢字から察するに人生の最後、つまり死に直面する人々と向き合う仕事であろうとは容易に想像出来た。そして連鎖的に思い出したのが、以前観た本木雅弘、広末涼子主演の『おくりびと』という映画であった。

            私は物書きと言う仕事柄、知らないことは自分の目と耳、時には感触によって確かめないと気がすまない。と言うことで、「おくりびと」と「看取り士」とはどう違うのかを知るためにも講演会に出席した。


            看取り

            会長の柴田句美子さんは外国への出張講演は初めてとの事であったが、自身のバックグランドに始まり、何故この道に深く関わるようになったかの経緯、活動の紹介、看取り士になるための仕組み等を、ビデオ(途中でダウンしてしまったが)を使って話された。

            全く新たな職域ではあるが、彼女が数年前に立ち上げた「一般社団法人日本看取り士会」の養成講座を受け「看取り士」の資格を持っている人は今150人ほどいるとのこと。

            今回ビクトリアに足を伸ばしたのは、当地に住むある日本女性の積極的な働きかけがあってのことだが、講演の次の日からは、日本から会長と共に随行して来た
            12人が、当地の希望者2人と共に数日の講座を受けるためであった。

            予定の講座に参加するなら、いっそのことこの機を利用して目先の変わったビクトリアで・・・、となったようだが、講座費用、旅費、滞在費を含めれば決してお安い額とは言いがたいであろう。しかしそれでもこれほどの人数が集まるのは、やはりこれからは益々需要のある領域と言えるからと推測する。

            柴田さんの著書によると、日本における年間死亡率は現在110万人、団塊世代が加わることで将来は160180万人になると言われているそうだ。

            さてそれでは「おくりびと」と「看取り士」との違いは何か?

            「おくりびと」は亡くなった死体そのものに死化粧をし納棺し・・、と言った一連の作業があるが、一方「看取り士」は亡くなる人と生前に向き合い、抱きしめてその人の思いや愛やパワーを受け止め、残された人に受け渡すことだと言う。

            となると、立場に相違はあるものの、妊婦が病院での出産を望まない場合、お産婆さんの手を借りて自宅で産むのとどこか似ている気がする。


            だが、出来れば日常生活の中で人が直視を避けたい『死』と言う問題に向き合うということは、「仕事」とだけでは決して割り切れないもっと深遠な人の心の襞に触れることを要求される。それが出来る強靭な精神性も必要となる。

            しかし正直言って私は、柴田さんの講演が始まった時内心かなり戸惑った。というのは、彼女の終始一貫ニコニコしてよどみなく話す様が、まるで信者を獲得する新興宗教の教祖のように見え、ひどく違和感を覚えたからだ。


            看取り

            もちろん仏頂面した人から『死』の話を聞きたいと思う人はいない。日常の中のグレーの部分を話すことに、経験を積んだ彼女にはすでに抵抗がないのであろうし、幾つもの体験を乗り越えてきたからこその笑顔なのかもしれないとは思うが・・・。

            さて、言葉も習慣も違うこの国で日本と同じ作法が通用するかの疑問はあるが、一方このコンセプトが西欧社会ならではの独自の方向に波及することも考えられるなくはないだろう、とそんな感想を持った。
             

             


             

            | - | 05:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            作家 津島佑子さんの思い出
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              作家の 津島佑子氏が2月に肺ガンのため68歳の若さで亡くなった。

              かの有名な太宰治の娘であったことを知らぬ人はいないだろう。あらがう事が出来ない血の流れとでも言おうか。生前受賞した「文学賞」は14にもなりその数の多さには驚かされるが、作品は自立した女性の生き方や、人間の生死を軸にその真髄に迫り問い続けた作品が多かった。

              それは氏の生い立ちを見れば容易に理解できる。

              多摩川上水で、よその女性と入水自殺した38 歳の父親とは一歳で死別しており、12歳の時には脳性障害のあった3歳年上の実兄が病没。
              更には、父親が又も他の女性との関係で生まれた津島氏とは8ヶ月違いの異母妹、作家・太田治子の存在もある。加えて、自身の私生活では一度目の結婚で娘1人を出産後離婚。再婚相手との間に生まれた8歳の息子を呼吸発作で亡くし、その後この夫とも離婚している。

              人生の辛苦を十分に体験し尽くした作家であったが、作品は日本ばかりではなく、英語、仏語、独語、伊語、中国語など等にも翻訳されており国際的にも評価が高かった。

              すでに20年前になるが、私はこの作家を単独インタビューする機会をもった。氏は当時まだ40代後半で、トロントで毎年開催される国際的に名の知れた作家たちを招待して、自身の作品を読む「国際作家大会」に参加するために来加された時のことであった。


              Tsushima Yuko

              当然と言おうか、その時私はお会するまでかなり緊張した。だが、質問を開始すると気取ったところはミジンもない気さくな人柄であったが、同時に内に秘めた強靭な意志をそこここで感じた。

              その時の貴重な体験を振り返り、今でも私の心に残る氏との会話の幾つかを思い出してみたい。

              まず私がとても知りたかったのは「小説を書く喜びとは何か」と言う事だったが、「私は自分が伝えたいと思うことを小説に書くため『これは届くぞ』と思うものが書けたとき、またはそれを受け止められたと感じられたときはとても嬉しいです」と率直な返事が返ってきた。

              続いて「父親、実兄、息子さんとの死別がご自分の文学に与えたものは?」に対しては「私に小説を書く力を与えてくれたのは、脳障害のあった兄の存在が大きかったと思う」と言い「彼は言葉を使って自分で表現することは出来なかったものの、人間的な感情や知恵に満ち溢れていて人を愛することを知っていました。でも肉体が死んでしまえば後には何も残らないわけです。

              父も小説は残しましたが、若くして亡くなりましたからまだ言いたいことがあったのではないか思います。家族ばかりではなく、語らずに死んでいった多くの人の気持ちを代弁したい、と言う気持ちが文学に進むことを選んだのだと思います」とその思いを吐露してくれた。


              また父親の作品はいつ頃から読み始めたかには「10歳のころなるべく漢字の少ないのを選んで読みました」といい「でも家族が書いた作品と言うのは個人が残した日記を見るようで文学作品としては読めないものですが、ただ何を考えていたかを知りたかったのです。

              私のことを『何てかわいい子だ』なんて書いてあるかと期待したのですが、何もなかったのでがっかりしたのを覚えています」とユーモアのある返事をしながら破顔一笑する笑顔が優しかった。


              幾つもの質問の後に日常のスケジュールを伺った時「私は家の中のことなど、浮世のことはもうすべてやってしまった、と言う生活状態にしないと全身で小説に入り込めないのです」との返事が返ってきた。

              私は内心「こんな著名な作家でも女性となると日常の雑事が優先されるのか」と半ば驚き、反面、それ故に「人間的な細やかな表現が出来るのかもしれない」と納得したのであった。


              ご冥福を祈りたい。

               
              Tsushima Yuko





               

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              日本の国技 相撲
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                メールマガジン「ビクトリア見聞録」 3月27日号


                 



                読者の中には日本の相撲がこよなく好きと言う人も多いかもしれない。近年はテクノロジーの発達によって、海外在住でも年6回の取り組みを楽しむことなど分けもないことである。

                私はいわゆる「相撲ファン」などではないものの、今場所は誰が優勝したくらいの情報は得ている。

                若い頃は、あの太った身体を目にするのがとても不快で、頭では歴史のある国技だということは知っていたが、世間で言う人間味が出る技の素晴らしさなどに目を向ける気など更々なかった。


                だが外国住まいが長くなるに従って、日本のこうした催し物に「懐かしい・・・」と言う気持ちが湧き食わず嫌いは良くないと思うようになった。

                そう思ってたまに目を向けると「なるほど、あんな技があるのか」とか「あの力士の技はお粗末だな」と素人の私でも段々と分かってきたから不思議である。


                力士はどこの国の出身でも四股名は日本名であるため、通でない限り同じアジア系の場合などは、顔を見ただけでは日本人力士かどうかまったく分からない。

                今や外国出身の力士など何も珍しくないが、戦後初の外国人力士は64年に初土俵を踏んだ高見山(ハワイ出身)でジェッシーという愛称で呼ばれていた。大きな身体にしゃがれ声、加えて米国人らしい陽気さで人気があったのを覚えている。

                中にはカナダ出身の力士もいたようで、85年の九州場所で初めて土俵を踏んだ琴天山と言う人が記録にある。だが彼は相撲界にどうしても馴染めず、プロレスラーに転身したが42歳の若さで病死したそうだ。

                その後は、30年振りに去年白人力士(ビクトリア出身)がニュースになり、当地の新聞Times Colonistでも採り上げられた19才のブロディ・ハンダーソン力士が記憶に新しい。金髪でイケメンと騒がれているようだが、その内にビクトリア在住の両親に会い、また次の訪日の際には本人を是非インタビューしてみたいと思っている。

                今はモンゴル出身が外国人力士の中で一番多く26人にも上り、日本の伝統競技はすっかり外国人力士がその担い手になった感がある。実際の優勝歴を見ると、2006年以来モンゴル勢が19回、ブルガリア出身の琴欧州が一回優勝しているのである。

                そんな中、今年3月の春場所では、大関琴奨菊が10年ぶりに日本人力士として優勝を果たした。だがその際メディアが余りにも「日本出身を前面に出し過ぎる」と批判され、違和感を感じた人は多かったようだ。

                「世間では国際化、国際化を叫ぶくせに・・・」と私もその反応にニンマリし、そう感じる人がもっと増えればいいのにと思ったものだ。


                もちろんこれは、相撲は日本古来の文化という思いが日本人には根強くあり、今でも外国人力士を脇役(お飾り)と考える人が多勢を締めるからではないかと思う。

                だが今は、モンゴル出身者を筆頭に11カ国から39人の力士がしのぎを削る時代である。日本人も外国人も分け隔てなく戦えるスポーツに変身しなければ、相撲界の将来はないのではあるまいか。

                ちなみに私は軽量で小柄ながら、真っ向から勝負を挑むモンゴル出身の日馬富士が好きである。





                 

                | - | 02:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                温暖の地に築く「Tent City」 〜BC州・ビクトリア市のホームレス問題 〜
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                  冬の温暖なビクトリア市



                  3月初めには桜が咲き乱れるビクトリア市


                  カナダの中では気候が一番温暖といわれるバンクーバー・アイランド。確かに州都であるビクトリア市に、冬の間雪が降ることは大変珍しい。
                  まれには、うっすらと雪景色の朝もあるものの、太陽が出ればすぐに溶ける。とは言え、冬は雪の代わりに雨が多く、曇り空の日が続くのは珍しいことではない。


                  それでも国内のどこよりも温暖な地となれば、冬を過ごすのが楽なことは確かだが、それを見越してこの町に集まるホームレスが当地では大きな問題になっている。

                  薬物利用などが理由でこの一年で8人が亡くなったというが、トロントの冬のように路上生活で凍死することはないため、仲間が仲間を呼び寄せることも多くなる。

                  実際にバンクーバーはもとより、トロント、カルガリー、エドモントンなどからもヒッチハイクをしながら当地に来る人々もいる。今時はホームレスといえども携帯を持参している人も多く、仲間同士が簡単に連絡を取り合えるようだ。


                  たむろして集まる場所は郊外と言う事はほとんどなく、やはりいろいろなことで便利な上、人通りのある場所の方が日銭の実入りも多いことからダウンタウンに集中することになる。

                  都会であれば今時は、世界の何処でもホームレス問題を抱えていない町はないと言っても過言ではないだろう。
                  もちろんカナダも例外ではなく、
                  2年前に国が発表した「2014年度ホームレス年次報告」によれば、シェルターの確保を初めとして、警察との関わりや病院への費用など諸々の関連を併せると、年間約70億ドルが使われているという。


                  州裁判所の裏庭

                  「ガーデンシティ」の異名があるほど綺麗なビクトリア市は、春から始まる観光シーズン中には、昨今の強い米ドルの影響もあって多くのツーリストが訪れる。当然ながら観光は大きな収入源であるが、街中に見られるホームレスの問題は市に取って長いこと頭の痛い問題になっている。

                  特に去年の夏ごろから、ダウンタウンにある州裁判所のレンガ造りの立派な建物の後ろに広がる公園に、「Tent City」と称するたまり場が出来たことから大きな波紋が広がった。

                  最初のうちこそ数も少なかったが、季節が移り秋も深まる頃にはその人数が日増しに増え、常時100120人くらいの人々が幾つものテントに寝泊りするようになった。

                  中にはしっかりと土台を作り、冬に多い雨が床から染み込まないようにバラックまがいの家を建てる人まであらわれた。


                  tent
                  バラックまがいの手作りの家

                  tent
                  階段のついた建物もある

                  トイレは公園脇に設置された簡易トイレを使用し、定期的な交換が行われる。またシャワーは近くの互助機関に備えられている場所のを利用することが出来る。


                  テント
                  「シェルターではなくホームを」のサイン


                  「貧困は大きなビジネス」と皮肉ったサインも見られる

                  テント
                  幾つも並ぶ簡易トイレ

                  時の経過と共に公園の周辺住人から、昼夜にわたる騒音や、車庫やバルコニーからの盗難の被害などの苦情が相次ぎ、それをマスコ
                  ミが大々的に報道し、問題が益々エスカレートしていっった。


                  テント
                  連日の新聞の記事

                  筆者は何回も時をずらして公園を訪れてみたが、彼らは毎朝の行事として輪になってその日の心境をぶちまける儀式のようなことを行っていた。こうした生まれる仲間意識が強い絆になっていくという。


                  テント
                  輪になっている様子(中央の赤いジャケットの2人は毎朝様子を身に来るNPOのボランティア)
                  後ろの建物がBC州裁判所



                  テント
                  雨の日の翌朝のぬかるみの処理。ボランティアが手際よくワラをまく


                  政府からの援助

                  当然ながら、州政府もビクトリア市も問題を黙認しているわけではなく、以前からタウンミーティングを開いたり、あれこれと良案を提出し解決に向けて乗り出している。

                  まずは住居の確保ということで、幾つものNGO機関と連携して市内にある今は使われていない建物を改造し、シェルターとして提供している。しかしいずれも永久に住めるパーマネント・レジデンスではないが、市内に数ヶ所そんな場所を確保し、ボランティアの手を借りて改築している。

                  その一はTent Cityの公園からわずか2ブロックほどの所にあり、Mount Edwards Courtと呼ばれる如何にも歴史を感じさせる古めかしい建物である。以前はシニア向けの住居として使われていたというが、BC 州は365万ドルで購入し臨時のシェルターに改築した。


                  テント
                  Mount Edward Courtの立派な外観

                  ここは100人ほどを収容することが可能だが、2月末にはその内の38部屋の改築が終了し、Tent Cityからの住人が住めるようにした。食事を提供し、将来のためにライフスキルのトレーニングを行い、また健康管理や薬物依存症の人々へのサポートプログラムなども組みつつある。

                  だが今はあくまでも一時的なシェルターとして提供しているに過ぎない。将来もし住居可能な100部屋すべてを低所得者用のハウジングとして恒久的に住めるようにするとなれば、地域住民の理解を求めるために公聴会を開き、許可を得るなどの大々的な手続きを踏まなければならない。


                  テント
                  「シェルターではなくhomeを」のサイン

                  公園がホームレスのたまり場になる前は、この一体は閑静な住宅街でカテドラルと呼ばれるカトリック教会とそれに併設された学校もあることから、どの程度住民の許可が得られるかは大いに疑問で先行きの見通しは立たない。

                  加えてこの学校に子供を通わている親たちが、先の見えない地域の環境に不満をつのらせ、最近は子供を他校に移すようになっており、従って教師も職を失いなど負の連鎖も見られるようになった。


                  テント
                  教会を背にテントが並ぶ

                  しかし一方では、こうしたハウジングのプログラムに関わる人々や、BC州の住宅局大臣などは、「ひとたびホームレスの住居が定まり定住するようになれば、彼らにも地域の住民としての認識が生まれ、また地域に住む人たちにとっても新たな住人への理解が深まると思う」とコメントしている。

                  だがこうした問題は、関わって被害を受けている人に取っては大問題だが、そうでない人たちはサポートはするものの常にNMBY(Not My Back Yard)となり、喧々ごうごうの争議が持ち上がっている。


                  立ち退き命令の225

                  市内の梅の花が盛りを迎え、又早咲きの桜もチラホラ見られるようになった225日は、Tent Cityの住民にとって「裁きの日」であった。

                  それは州政府の命令で、ホームレス全員が公園から立ち退きをしなければならない日だったのだ。全員の行き先が決まったわけではないものの、この命令によってさぞかしの大移動が繰り広げられるのかと想像していた。

                  しかし当日は、晴天で春うららの日であったことも手伝い、切羽詰った雰囲気は一切見られなかった。
                  午後
                  4時ごろにはバンクバーのイーストサイドから50人ほどの応援団がバスに乗って駆けつけ、ボランティア関係者、メディア関連の人々も入り乱れ、まるで大賑わいのお祭り騒ぎを展開した


                  テント
                  機材の点検に忙しいメディア・クルー

                  テント
                  自分で焼いたケーキを持参してきたボランティアの男性

                  テント
                  一日中ホットドッグ作りを手伝うボランティア

                  差し入れのたくさんの食料は、ホットドッグ、チップス、サラダ、手作りのケーキ、果物、飲み物など等・・・。
                  Tent Cityの住人に限らず、集まった人の誰かれを問わずに振舞われ、今日が立ち退きをしなければならない「最終日」などという切羽詰まった雰囲気は一切感じられなかった。


                  テント
                  ポリスも明るい表情で見守る

                  本土からの応援団は、民族衣装を身に着けたファーストネーションの人々が多かったが、白人のアクティビストもたくさんいて、次々にマイクを握り「一丸になって頑張ろう!」と意気盛んに思いの丈をぶちまけた。

                  特にファーストネーションの人々は、自分たちの出自ゆえに虐げられてきた過去を持つだけに、強いサポートを惜しまない。


                  テント
                  バンクーバーからの応援に駆けつけたファーストネーションのチーフ

                  テント
                  本土から来たサポートの人々

                  問題の解決に向けて

                  ビクトリア市民のどの人に聞いても、この日を境にTent Cityの住人が一斉に姿を消すなどの幻想は持ってはいなかった。

                  事実23日後に再度公園を訪れてみると、テントの数は確かに少し減っているようには見受けられたが、「どのくらい減ったの?今の数は?」の質問に、「まだ100人くらい居るかな?」との返事。
                  「えっ、それって前と変わらないじゃない?」に対して「移った人の場所にまた新らしく人が来るからね」と言う。


                  普通は正式に引越しや国内移住をすれば、移動先の生活を開始するにあたり揃えなければならない書類など煩雑な手続きがいろいろとあるものだ。

                  そんな面倒をすり抜けての生活は楽かもしれないとは思う。だが、個々の話に耳を傾けてみれば、社会の流れからすり落ちて路上生活を余儀なくされたバックグランドが容易に垣間見られる。


                  テント
                  立ち退き命令の5日後、すこしテントの数が減ったように見受けれられるが・・・

                  彼らと政府や互助機関の援護サービスをめぐる動きは、何やらイタチゴッコのように思えなくはない。だが、それでも努力を重ねる関係者には敬意を表したいし、これからも途切れることなく続く問題であることにだけは間違いはないだろう。

                  (2月末日 記) 

                  〜*〜*〜*〜*〜

                  後日談:あの立ち退き命令が出た日から一ヶ月経った3月25日。
                  一時的にはテントの数が少し減ったように見受けられたが(↑)、また以前と変わらない数のテントと住民が敷地を埋めていた。土地の人々やメディアは「もう当地だけで手に負える問題ではない。国が立ち上がらない限り解決は無理」といった論調になっている。
                   

                  テント
                  また以前とほとんど変わらない同じようなテントが並び始めた
                   
                  | - | 10:51 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  書評「コーラス・オブ・マッシュルーム」(Chorus of Mushrooms)
                  0
                     
                    【書評】

                     アルバータ南部に移住した日本人家族の物語
                      「コーラス・オブ・マッシュルーム」
                        (
                    Chorus of Mushrooms
                      ヒロミ・ゴトー著、増谷松樹訳(彩流社)
                    http://www.e-nikka.ca/img_base/10pic.gif


                    マジック・リアリズム技法
                     今年、日本の彩流社から出版された日系カナダ人二世の
                    ヒロミ・ゴトー著、増谷松樹訳「コーラス・オブ・マッシュ
                    ルーム」が話題となっている。

                     数ある小説の中には、多くの登場人物が幾重にも入り組むも
                    のも少なくない。
                     だが「コーラス・オブ・マッシュルーム」は、何人かの限られた
                    人物によって話が進められていく。
                     

                    書評 コーラス
                    ヒロミ・ゴトー氏 

                     物語を織り成す主な人々は、年配になってから娘夫婦と共に
                    日本からアルバータ州のナントンという小さな田舎町に移住し
                    20年になる85歳のナオエ(清川直恵)、娘夫婦のケイコと夫
                    シンジ、その夫婦の娘であるムラサキ(英語名=ミュリエル)
                    と彼女のボーイフレンドである。もちろんそこには彼らに絡
                    む友人や知人たち、経営するマシュルーム工場で働く
                    人々、町中の人々も重なりあう。
                     

                     だが、これは単なる日本人の移住物語ではないため、筋書き
                    を確実に理解するにはしっかりと読み込む必要がある。

                    何故なら、文章がいわゆる「マジック・リアリズム」の手法を
                    用いて書かれているからだ。ちょうど村上春樹の短編集、
                    例えば「かえるくん、東京を救う」「神の子どもたちはみな
                    踊る」などを彷彿(ほうふつ)させる。
                     

                     つまり、日常にあるものが日常にないものと融合した表現
                    技法が屈指されているのである。

                     また登場人物が一つ以上の名前を持っていたりするため、
                    作品構成ばかりではなく、内容が非常に謎(なぞ)に満ちて
                    いる。

                     平易に物語を理解しようとする読者は完全に拒絶されるが、
                    反面、それゆえに次に何が起こるか興味が湧くのである。
                     


                    「コーラス・オブ・マッシュルーム」の表紙 

                     原文の英語本「Chorus of Mushrooms」では、ローマ字で長々
                    と書かれている日本語(その個所の英語の説明はない)が
                    そこここ引用されている。

                     日系作家は日本語の単語や短文を文中に使うことに特徴があ
                    るが、本書では長文が多数出現し、それを訳者はカタカナで
                    表現している。


                     加えて、手書きの文字、新聞記事、葉書(はがき)までもが
                    挿入されており、言語の表現が実に幅広いことに驚く。


                    mushroom
                     
                     それを日本語訳者(増谷松樹氏)は異なるフォント、太字、
                    イタリック体、カタカナなどを用いて読者が理解しやすいよう
                    に組んでいる。


                    mushroom

                     おかげで物語を追い易いが、翻訳者にとっては、
                    さぞやチャレンジングな仕事であったろうことは容易に想像
                    がつく。
                     

                    mushroom

                    「オバアチャン」ことナオエ
                     物語は本書の一番の主人公である「オバアチャン」ことナオエ
                    が、娘夫婦と共にカナダにやって来た成り行きから始まる。
                     彼女にとっては決して意にそった移住ではなかった上に、娘
                    夫婦はカナダに同化するために家庭内でも日本語を話すことを
                    拒否し、英語のみの生活を選択する。
                     

                     老いてなすすべもない年齢で、こんな環境にいることを余儀な
                    くされれば、普通は口を閉ざしてしまうだろう。しかしナオエは
                    しゃべることを選択し、周囲にはお構いなしに断固として沈黙を
                    拒否し続ける。それゆえに物語は次々と展開して行くのだ。
                     

                     自分の生い立ち、少女時代の養蚕場での仕事、戦争中の結婚と
                    離婚・・・などなど、とめどない。興味深いのは、そこに日本の
                    昔話なども挿入される。だがその筋書きと結末は、従来の
                    「おとぎ話」とは大きく変化し伝統的な枠組みから逸脱する。
                     

                     例えば一寸法師の話では、大人のサイズになった一寸法師が
                    姫と共に「末永く幸せに暮らしたとさ」にはならず、傲慢
                    (ごうまん)になったことに立腹した姫によって元のサイズに
                    戻され、おまけに踵(かかと)で踏みつぶされる。

                     また姨捨山(うばすてやま)の民話でも、命を絶つために山
                    に送られたはずの老婆が逆に自由を満喫したりするのである。

                     そこにはナオエを通して作家自身が類型的な形にはまること
                    に抵抗し、おざなりの終結に果敢に挑もうとする力が感じられ
                    る。
                     

                    ナオエの孫娘ムラサキ
                     一方、孫娘ムラサキからは、ナオエのおしゃべりに並行して
                    自分探しの物語が語られる。

                     当然ながら彼女には閉鎖的な田舎町の白人社会で唯一の日系人
                    として育つ苦悩がある。しかし日本語を話すことはおろか、日本
                    の食料品を買うことも拒否したような頑(かたくな)な母親とは
                    心通うつながりは得られず「ママの声は空っぽのバケツの中で転
                    がる孤独な小さいマッシュルームのようだった」と感じながら
                    成長していく。
                       

                     皮肉なことに日本語は話さないものの、その心の空洞を埋めた
                    のは言葉の通じないオバアチャンとの交流であった。それによっ
                    て否定することの出来ない自分の中の日本人としてのルーツに
                    目覚めていくのである。
                     

                    ナオエの娘ケイコ
                     物語のハイライトは、ナオエが自分の物語を語り終えた時点
                    で、若く力強いヒロインに変身し、家出をしてしまうことだ。
                    それはあたかも、ナオエとムラサキの象徴的な一体化を示して
                    いるように見える。

                     だがこの事件に娘のケイコは打ちのめされ精神衰弱になるが、
                    面白いことに回復の癒やしは、ムラサキの作る日本料理のトン
                    カツ・ディナーだったのだ。
                     

                     家族という形を保ちながらも、お互いに理解することが出来な
                    かった過去。だが和解することによって、ナオエとケイコ、ケイ
                    コとムラサキ、加えて父親シンジとムラサキなどそれぞれの関係
                    にある種の光明が見えて来るかに見える。
                     

                     おそらく読者は物語のベースは、ゴトー氏の家族と思うだろう
                    が、ゴトー氏自身は本書の冒頭で「この個人的な神話を語り直す
                    にあたって、祖母の実際の人生について自由に変更を加えました。

                     この小説は、過去にあった『事実』から出発して、現代の民話
                    伝説の領域に到達することを目指しました。ですからこの作品は
                    創作と考えてください」と前置きしている。
                     

                     物語の中で何度も示唆しているのは、「読み手は語り手」で
                    あるという視点。つまり物語は聞くだけでなく、語りなおして
                    こそ意味があるとし、「あなたは物語を変えることができる」
                    と記して本書は終わる。



                     読者はそれぞれの立場からいかようにも物語を読み、それを
                    自分の中で膨らませることが出来るということだろう。
                     

                    日系カナダ人作家の活躍
                     私はゴトー氏の処女作であるこの作品(1994年)以外は読ん
                    でいないものの、一時期多かった戦時下に強制収容所に送られた
                    日系人の苦難の物語や、その過去と向き合う補償問題をテーマに
                    した読み物とはまったく違った、カナダ生まれの、あるいは、
                    日本生まれながら幼い時からカナダで育った日系作家が台頭して
                    いることを感じる。
                     

                     しかし、どうあがいても日本人の血を受け継いでいるという
                    点から逃れられないのであれば、マジック・リアリストと呼ば
                    れる彼らが、その特有なバックグラウンドゆえに生み出す新た
                    な道がこれからも大いに拓(ひら)けることを期待したい。
                     

                    ***************************** 

                    「コーラス・オブ・マッシュルーム」(Chorus of Mushrooms
                    ヒロミ・ゴトー著、増谷松樹訳(彩流社)
                    2,800  

                    ***************************** 

                    ヒロミ・ゴトー
                     1966年千葉県生まれ。3歳になる直前に家族と共にカナダに
                    移住。カルガリー大学英文科卒。バンクーバー在住。
                    1994
                    カナダで生きる日系人家族を描いた本作「コーラス・オブ・
                    マッシュルーム」によって作家デビューし、コモンウェルス処女
                    作賞および日加文学賞を受賞。
                     第2作「
                    The Kappa Child」(2001)でジェイムズ・ティプト
                    リー・ジュニア賞、ヤングアダルト小説「
                    Half World」では、
                    サンバースト賞、カール・ブランドン・ソサエティ・パラレッ
                    クス賞をそれぞれ受賞している。
                     ほかにも児童向け作品、短編集、詩集などの刊行物多数。
                    現在は創作インストラクター、ワークショップなどでも活躍。
                    作品は若い世代に人気があり、仏語、伊語、ヘブライ語、
                    トルコ語などに翻訳されている。
                     

                    訳者 増谷松樹
                     翻訳家。1946年横浜生まれ。慶應義塾大学仏文科卒。1976年カナ
                    ダに移住。詩人の故ロイ・キヨオカ氏を通じて多くの日系カナダ
                    人作家、アーティストと交流する。
                     キヨオカ氏の「カナダに渡った侍の娘
                    ある日系一世の回想」
                    2002)(草思社)をはじめ、日系カナダ人の和文文献、「日系
                    人所有漁船処分顛末覚書」(木村岸三著)などの英訳などの仕事
                    も手がけている。
                     





                     
                    | - | 07:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    トロント発 メールマガジン 「e-nikka」
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                      西海岸ルポ

                      デンマン・アイランド(Denman Island)
                      〜カナダで初の自然葬のみの墓地〜



                      ジョージア海峡の島々

                      カナダ本土とバンクバーアイランドの間にあるジョージア海峡には、ざっと数えただけで156の島が存在する。
                      中にはフェリーの航路にも入らず、生活も自給自足で雨水をためて生活するような人々が住む小さな島もあるが、そんな生活も、自分自身が満足し不便を感じない限り可能である。
                       

                      理由の一つは、国内の他の地域と比べて比較的気候が温暖であることが大きいだろう。もちろんまったく雪とは無縁というわけではない。

                      だが多少降ってもすぐに解けることが多いため、どの家にもいわゆるセントラルヒーティングのような設備はない。各種の暖炉と電気ヒーターがあれば、真冬でも十分に間に合うのだ。
                      電気代はトロント地域と比較すると格段に安い。
                       

                      ビクトリアのような都会でも、冬の備えは同じようなものだが、特に海峡に浮かぶ島々では「自然と共生」して生きる生活様式が住民のメンタリティーとして定着している。 
                       

                      デンマン島のフェリーの船着き場 


                      デンマンアイランドの生活

                      そんな島の一つに、ビクトリアの町から車で北に2時間半ほど行った Buckley Bay 沖に浮かぶデンマン島(Denman Island)がある。Buckley Bay の港からフェリーに乗れば15分ほどで到着する。

                      人口は1,200人ほどであるから、極小の島というわけではないが、野菜畑を育てるなどは島民には普通のことで、お互いに出来たものを物々交換したりも日常的に行われている。 

                      denman
                      この時期でも思わず手に取りなくなるりんご 

                      だが、肉類は政府指定の屠殺(とさつ)場がないため、たとえここで育った食肉用の動物でもバンクーバーアイランドに運んで処理するという。島にはゼネラルストア(雑貨屋)、リカーストア、本屋、クラフトの店などはあるものの、人々は定期的にフェリーでバンクーバーアイランドに渡り買い物をする。

                      当然ながら消防署もあり、資格のある救急隊員が本土から2週間交代で派遣されている。
                      加えて、希望する島民は訓練を受けてボランティアとして補助し、緊急時には全員が持つページャーで「
                      911」から連絡が入る仕組みになっている。彼らには税金控除の特典が付く。 

                      病院はないものの、島内の住民によってホームケアの組織が構成されており、ある意味では大都会より心のこもったサービスが受けられる可能性もあるようだ。

                      しかし夏場はツーリストが数多く押し寄せるため、バケーションランドと化し、冬場の静寂は大分失われる。彼らが泊まるB & B の商売をする家々も多いが、今の時期になれば大方が閉められ静けさが戻る。夜などは、それこそ懐中電灯がなければ何も見えない闇(やみ)になる。 

                      日中の日差しも短くなったそんな秋の一日、ちょうどサンクスギビングデー連休の日曜日(1011日)に、カナダの耳目を集めるニュースがこの島から発信された。西海岸の新聞はもちろんのこと、CTV などでも取り上げられたのは、「自然葬専用」の墓地がデンマンアイランドにオープンしたからである。 

                      DENMAN
                      デンマンアイランドの自然葬専用墓地の入り口、島に住む彫刻家 Michael Dennis 氏の作品 

                      もちろん自然葬自体は太古の昔から行われてきたもので珍しいわけではない。とりわけ西海岸では、ファーストネーションの人々がその先駆者であるし、他にも国内に4〜5カ所あるという。
                      だが、近代における一般人を対象とした埋葬方法としてはまだ目新しく、その「専用墓地」というのはカナダでは初めてなのだ。
                       


                      近代社会の埋葬法

                      近年こうした自然葬が話題を呼び、今、それを支持する人々が非常に多くなっているのはなぜなのだろうか。
                      それは、地球になるべくダメージを与えない「環境にやさしい葬儀」というのが重視され、真剣に考える人々が増えてきたからである。
                       

                      現実問題として、人が亡くなった場合を考えてみよう。

                      北米における普通の手順では、まず防腐剤(ホルムアルデヒド)などの薬品を遺体に使って腐敗を防止する。その後、お通夜(
                      Viewing)のために、特にオープンキャスケット(ひつぎ)の場合は、本人が生前好きだった洋服(化学繊維が多い)などを着せたり、化粧(化学薬品が含まれる)を施したりもする。

                      加えて、お棺も、当然ながら費用によるものの、金属の留め金などがたくさん付いている化学処理をほどこした木材が使われる。 

                      そして埋蔵。いずれお棺全体が朽ちて長い年月の後には土の一部になるものの、どれもこれも化学処理をした材料を使用するため「死して自然(土)に返る」という考えからは程遠いことになる。 

                      では日本人などに多い火葬の場合はどうだろうか。普通は、日常生活の中でこのようなことを考えることは余りないものだが、一人の遺体を火葬するには、車が900キロも走るのと同じ汚染物質を排出するのだそうだ。
                      そして火葬後には遺灰を陶器や金属の壷(つぼ)に入れて、多くの場合、コンクリートで囲った地中に埋め込む。
                       

                       冷静に考えてみれば、どれを取っても地球には害がある方法である。
                       

                      「自然葬」とは?

                      そこで「GreenGreen」と叫ばれている昨今、亡くなった人に一切手を施すことなく埋葬しようというのがこの「自然葬」なのである。
                      こうした動きは、
                      25年ほど前に英国で始まり、今では200カ所にも及ぶという。それが北米にも伝授され、特に自然環境の整っているBC州の人々の間で支持されているのだ。 

                       しかし、墓地の新設となればそう簡単に出来るものではない。
                      デンマン島でもこの秋オープニングにこぎ着けるまでには6年もの歳月を要した。必要に迫られた一番の理由は、島民が亡くなっても、すでにある従来の墓地には、もう埋葬出来る余地がなくなってしまったことによる。
                       

                      DENMAN
                      自然埋葬墓地の反対側にある従来の墓地はすでにいっぱいで余地がない 

                      DENMAN
                      長い間には苔(こけ)むして見苦しくなる 

                      そこで考えられたのがこの自然葬で、島の真ん中にある背の高い潅木(かんぼく)の茂る環境的に配慮された土地(54平方キロメートル)が選ばれ、島民の支持のもとに徐々に開発が進められて来たのである。 

                      埋葬の条件は、防腐剤は一切使用せず、分解性のある繊維で遺体を包んだり化学処理のない木の蔓(つる)などで作ったキャスケットを使い、地下にはコンクリートの囲みを設けないこと。更には、埋葬後は地上に従来型の墓石を置かず、花や木々を植えないこととされている。 

                      DENMAN
                      柳のつるで出来たキャスケット(ひつぎ) 


                      埋葬できるのはデンマン島の住人に限られているが、費用は$1,732.50ほどで済むという。埋葬された第一号は、長い間この島に住んでいた70代の女性で、オープニングの2日ほど前に埋められた。 


                      自然の木々に囲まれた自然葬第一号の人のお墓 

                      計画では、これから100年先までを見越している。敷地の奥に向かって約1,000体を埋葬できるキャパシティーがあり、必要に応じ、周りの木々の除去が行われていく。 

                      DENMAN
                      自然葬墓地の予定見取り図 

                      また、家族が墓参に来た際には、集える場所があり、コンクリートの壁には名前を彫ったプラグをはめ込むことが出来るようになっている。 

                      DENMAN
                      墓参の人々が休憩できる場所。後ろの壁に名前をはめ込むことが出来る 

                      まだこれから整えることも多いのだろうが、いずれにしてもカナダで初の「自然葬専用」ということで話題をまいたことは確かだ。 

                      ところ変わってバンクーバーアイランドのビクトリア市郊外にある広大な Royal Oak 墓地にも「Natural Burial」と称するエリアがあり、同じコンセプトの墓地が存在する。 

                      DENMAN
                      背の高い木々に囲まれた自然埋葬地の一角。白木の棒が目印になっている 

                      DENMAN
                      名前が刻まれている御影石(みかげいし) 

                      デンマン島の日本人移住者たち

                      話は変わるが、デンマンアイランドには何人かの日本人移住者も住んでいる。

                      カナダの日系作家の作品を翻訳する仕事を続けている人もいれば、リタイアする以前には、有機栽培の原料を使って味噌の製造を商売にしていた人もいる。
                      また、ゴルフが好きで、西海岸にお子さんたちが住んでいるなどの理由からトロント近郊の町での生活にピリオドを打ち、ここに居を構えた人もいる。
                       

                      いずれも都会では考えられない広大な土地を所有し、ご夫婦で畑仕事、キノコ取り、薪(まき)割りなど、大自然の中でゆったりと時間に迫られない日常を送っている。
                      島の人々との付き合いはもちろん重視しながらも、決してお互いの生活に深入りしないことが暗黙の了解になっているようだ。 

                      島民になって2年ほどのご夫婦は、島での人間関係を「都会でいうボランティアのあり方とは違ったマインドがここにある」と話す。「トレイドイン」という言葉が日常に使われ、例えば音楽のレッスンに対するお礼に海苔(のり)巻きを作って持っていけば良し、などということもあったりする。

                      都会ではありえない「 Give Take」 の付き合いが生活の一部として根付いている島。自然と共生しながらの居心地のよい生活を楽しんでいることは疑う余地がない。 
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